マキノ雅弘の作品がもっと評価されますように

鴛鴦歌合戦を聴く。


鴛鴦歌合戦

 

 布教活動という事で一押しの「マキノ雅弘」監督を紹介する。

 

 日本の映画・芸能の一家 マキノ家の要

 日本映画の父 牧野省三の長男

 生まれながらの活動屋 マキノ雅弘である。

 

 日本の映画界というのは牧野省三から始まった。

かれは文字通り私財を投げ打って日本映画界を立ち上げた。

 日本映画界の出発というのは基本、家内制手工業なのである。

 

 私財というのは人的私財も含まれ、マキノ雅弘は幼少の頃、役者として映画人との人生をスタートさせる。

 父に反発もあり、一度は映画から離れるが、まぁ、色々あって映画界に戻ってくる。

 彼の人生は、彼の作る映画同様、はちゃめちゃに面白いので気になった人は

 

映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

 

 

こんなのを読んでみると楽しい。「地の巻」「天の巻」と2冊出てるよ。

サービス精神旺盛な監督なんで話がでかくなってる部分は沢山あると思うけど、うっかり全部本当かと思うぐらい面白いよ。

 日本映画界、黄金期の息遣いも感じられてワクワクするよ。

おすすめ。

 

まぁ、今回は作品の布教活動なので作品の紹介をする。

 

鴛鴦歌合戦 [DVD]

鴛鴦歌合戦 [DVD]

 

 

 「鴛鴦歌合戦」

撮影10日間で取り上げたという伝説の映画。

 早撮りで有名なマキノ監督にしても異常な速さ。

 

 主演の千恵蔵の撮影時間はたった二時間。企画から完成上映までわずか四週間という荒業。

 

 時間とお金をかければいい映画が出来るわけではないというのを見せつける、最高の娯楽映画である。

 

 脚本なんか書いている間はなかったし、役名も考えている間がなかった。志村喬の役名は「志村」、香川良介は「香川屋」、市川春代は「お春」、服部富子は「お富」、深水藤子は「藤尾」、ディック・ミネは「峰沢丹波守」

マキノ監督が話を作りながら映画を撮ったらしい。

 全てが同時進行。

 

ちょうど『宮本武蔵』(1940・稲垣浩)の二部と三部の間に撮られたもので、その優秀な(笑)メンバーがそのままの移行でカメラは「宮本武蔵」と同じく宮川一夫で絵日傘のシーンなど美しいシーン続出。

 映画の運もあったと思われる。

 

 一度聴いたら覚えられるそのフレーズの数々は楽しくて仕方ない。

いつもすかしてる千恵蔵のギャグテイストも楽しい。

 志村喬の歌のうまさにびっくり。

 

 純粋な娯楽映画。お正月にお酒飲みながら見るのにぴったりな映画だよ。

はいか版が1000円で出てる。購入して損はなし。

・・・・自分は以前、愛蔵版を購入したけどな。

 

 

次郎長三国志 第一集 [DVD]

次郎長三国志 第一集 [DVD]

 

 

もう一本は「次郎長三国志

 全部で9本あるけど、1本で紹介だ。

 

なんだ、映画の素晴らしさ、面白さ、かわいらしさのすべてが詰まってる作品。

 

カンヌやアカデミー賞を取る事は決してないだろうが、娯楽らしい娯楽がなかった時代に、庶民の為に、映画を(もしかしたら映画だけを)楽しみにしていた人たちにまっすぐ届けられた作品。

 

 「七人の侍」(1954/黒澤明)の撮影のために「殴り込み甲州路」はクライマックス時に「ブタマツコロセ」の電報がやってきた。豚松役の加東大介は撮影中に引き抜かれ、マキノ雅弘はシナリオなしでラストを撮ったという。

 外国向けに作った時代劇も美しいが、日本の庶民のために作った「次郎長三国志」の美しさももっともっと評価されていいと思う。

 

 内容は正直に言うとひとりでは半端ものでやっていけない人たちが集まってみんながみんなの為に生きる。みたいな感じかな。

わいわい、皆で酒飲んでるシーンが一番多いような気がするよ。

 

 尾田栄一郎はワンピースで次郎長三国志がやりたいんだって。

 

そっか、それだったらワンピース終わらないよ。

だって、次郎長三国志、未完だし。

 完成度より別の所に大切なものがある作品群だから。

 

 新人、森繁久弥の可愛らしさが大爆発だったり、男の「あほな純情」があちらこちらにみられたり、日本の芸能の一つの頂点である張り子の虎三(廣澤虎三)の歌声を聴くことが出来たり。

 女の人がかわいく、かっこよく、いじらしかったり。

 男の人が情けなくて、かわいくて、かっこいい。

 

ワンピース ストロング・ワーズの解説で内田樹先生が「昭和残侠伝」とワンピースの共通性を語っているが、やっぱ「残侠伝」より「次郎長三国志」だと思う。

なんというか「残侠伝」よりもっと、ほのぼのしてて、野暮ったくて、いじらしいんだよ。

もっと仲間、仲間してるんだな。

 

 勿論、内田先生は次郎長三国志も知っていて、世の認知度から「昭和残侠伝」を引き合いに出したと思われるけど。

 

 「3丁目の夕日」でやりたかったすべてが多分ここにあるよ。

 

 岡本喜八監督が助監督を務めたシリーズでもあり、後半は監督業もなかば岡本喜八がやっていたという作品。

 日本映画界 青春の1ページだね。

 

とにかく、活動屋とか、活動写真とか、牧野組とか、失われつつある日本映画界の匂いがそこかしこに感じられる作品だよ。

  

 尾田栄一郎のカバーイラストでDVDが出直し、レンタルでも見かけるこの頃、ワンピースファン、日本映画ファンが一度は押さえておいて損はない作品だ。

 

 必見。 

私はスクリーンで観ないでかかれた文章を映画批評とは思わない。

最初に結論から言ってしまうと、私自身はスクリーンで観ないでかかれた文章を映画批評とは思いません。

 

・・・何故こういう事を唐突に言い出したかというとツイッター内田樹先生が

 とつぶやいてらっしゃったからです。

ツイッターでこういうこと言ってる人がいるけどそれは違うんじゃないかなーって程度の事をツイッターで自分もつぶやいてお茶を濁そうかと思ったんだけど一晩考えても何故か違和感だらけでちょっとブログで自分がどうしてこんなに引っかかってるか書いてみたくなりました。

 

前提として自分は淀川長治先生を幼少のころポプラ社から発行されていた「僕の教科書は映画だった。」から心酔して映画に対する色々な考え方は自分で考えたり身につけたりというよりまんま淀川先生の影響です。だからオリジナルな考えは一つもない事をまず表明しておきます。

スクリーンで観ていない映画について文章を書くことを否定しません。というかそれはありだと思っています。プロでもアマでもです。ただスクリーンで観ていない映画について文章を書く場合、それは評論とはなりえないと思います。

映画はスクリーンで観るように作られています。自分も映画体験はテレビから始まったのでかなりの数の映画はテレビで観ています。そしてその後リバイバルなどでスクリーンで観たものもあります。

その体験に上下はありません。テレビで観たから下でスクリーンで観たから偉いという事は全然ないです。

自分も「カリオストロの城」は最初レコードでした。自分にとってはカリ城は長い間何十回と市の視聴覚センターで聴いた音が全てで凄く楽しんだしいつもわくわくしました。のちにテレビやリバイバルでスクリーンで観ましたが体験に音だけのカリ城が色あせる事は全くありませんでした。

ただ、テレビで観る作品とスクリーンで観る作品は全くの別物です。大抵の場合、映画はスクリーンで観るために作られていて、光や影、映像、音といった部分でテレビでは伝えきれないものが沢山あります。その部分はテレビで観ても決して判りません。

映画についてのコラム、監督についてや物語など一部についてはテレビだけの視聴でも語る事はできると思います。でもそれは決して「映画の評論」ではないと信じます。

自分は既に活動を停止されているブログのm@stervisionさんの映画の評価サイト

m @ s t e r v i s i o n | principle and policy with profile

にあるように「 映画館、スクリーン以外で流れるものはやはりモニターに表示されるの映画に似たなにかでしかない。」(ちょっと端折ってます。)

に同意します。

ただ、これはテレビなどで観る事が価値が下だという事ではないです。

でも明らかに違うんですよ、映画館で観ないと受け取れないものがあって「映画」として作っている以上それは作品の「肝」だと信じるのです。

だから監督自身が喜んでいるコメントが付いているので本当に余計なお世話なんですが、映画館で売られるパンフレットに乗せる文章がDVDで書かれていてそれをかく人を「映画評論家」とそこにかかれたものを「評論」と呼んでしまう事に、違和感を、もっと言ってしまうと怒りを感じてしまうんです。

それは劇場に足を運んでパンフレットを購入する客に失礼過ぎやしないかと。(本当は映画を作っている人たちにも失礼だと思うんだけど・・・)

依頼があるから仕方ないじゃないか、そこに需要があるんだからという向きもあるかもしれないけど、映画館まで足を運べないなら依頼を受けなきゃいいのにって思ってしまいます。文章の最後を観るとご本人もそこに違和感を感じているみたいですし。

なんというか自分、小学校の3.4年生の頃から淀川先生を追っかけてたんで公平には観てないです。内田先生ももう20年くらい書籍など読ませていただいて勉強になる事も多いですが、どっちに肩入れしてるかといえば淀川先生です。

全然公平じゃないです。

ご本人にお会いしたことはありませんが、淀川先生は全身全霊で映画を愛してらっしゃいました。テレビの洋画劇場のコメントはスクリーンで観たことが当然あるけどすべてテレビで視聴してから解説をされていたというエピソードは有名です。

試写会で業界関係者がいいかげんだったり、態度が変だったり、おざなりに映画を観ると厳しく叱ったというエピソードも色々と他の人達から伺ったり読んだりしいます。

淀川先生は凄く好き嫌いがはっきりしてらっしゃってお嫌いな映画はけちょんけちょんに語るし、言葉も結構ずばずば怖いです。

でも映画に対する愛情は深い方で、映画評論、批評、広告もいいかげんな態度で臨むことは自分も周りにも許さなかったと思います。

で、思うんです、映画のパンフに乗せる文章をスクリーンで観てないで書く、それを良しとする監督、依頼する映画関係者。淀川先生はその存在にきっと深く悲しみ、深く傷つき、深くお怒りになると思うのです。

で、やっぱりそちらのほうが正しいと思うんです。

映画館に来ているお客さんに売る映画のパンフレットの解説が「映画ににたちがう何か」をみたものを書いて関係者がよしとするとかやだなと思います。

 

内田先生は自分はその道のプロではないというのかな?命を映画にささげた淀川先生と同じ線で語られるのは困るのかな?

でも映画について好き嫌いを言うのでなく、良し悪しや「評論」をするのであれば「映画に似たなにか」を観て書くのでなく「映画」を観て書いてほしいなと一映画ファンとしては思ってしまいます。

そしてそれができないなら依頼を受けなきゃいいのにと。

内田先生にとっては沢山あるうちのひとつの仕事なのかもしれないんですが、正直悲しくなってしまいました。

なんかまとまりませんが、映画の評論はせめて映画を観てしてほしいな。

この監督は本当にそれでいいのかな?映画館で観てくれる客に対しては何の違和感もないのかなってもの凄く引っかかってしまいました。

 

淀川先生がなくなってから色々な映画関係者の方達の文章で「淀川さんが生きていたら。」って文章や発言してる映像をことあるごとに見かけます。

 

淀川先生が今生きてらっしゃったら日本の映画界に対してなんていうんだろう。

そういうのを沢山の人が聞けたらどうなるんだろうって改めて考えてしまいました。

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わらわの事 みんな坂田靖子さんの漫画を読むんだ!!

あー、やっぱりわらわってかわいい!!

ツイッター坂田靖子さんのお話をしてたら「わらわとは?」みたいな話が出たので以前のHPでおしてた「伊平次とわらわ」の紹介文を再掲。

みんな「伊平次とわらわ」を読んでわらわの素晴らしさを讃えよう!!

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坂田靖子著 「伊平次とわらわ 1」 第八話 狸 より(潮出版社

 

坂田さんのHP 坂田BOX( http://www2u.biglobe.ne.jp/~ysakata/  )  の中で
 「「自分の作品」に関して、個人のホームページ上では「出版社の利益を損なわない範囲」で、小さいものなら、なるべく自由に使っていただきたい。---と考えています。」
 のコメントを見たときからずっと狙っていた坂田靖子さんの「伊平次とわらわ」の紹介です。

 坂田さんの話はどれを読んでも嫌いがない…というか大抵大好きなんですが、「伊平次とわらわ」は別格。とくにわらわが3号の中では別格のお気に入りです。
 話は、坂田さんのサイトのお仕事箱の「平安の闇と鬼」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~ysakata/work/manga/heian/heian.htm

を読んでもらった方がいいといいかもしれないけど、ちょっとがんばってみます。
 伊平次は墓場のはずれに住んでいる墓守です。で、中納言の姫と名乗る犬、わらわがいつの間にか住みついてしまいました。この二人の生活に紛れ込んでくる(というか生活の一部)物の怪や化け物たちや人々と彼らのお話のいろいろです。
 基本、一話完結の短編集、いま2巻まで出てます。(また、書かないかなぁ、坂田さん。)テンポよく笑わせてくれます。さぁ、皆さん本屋さんへ走るんだ。今だったら同出版社より文庫本も出てるぞ。お願い、誰かわらわのすばらしさについて語り合おうよぉ。
 
 そう、この話、わらわがいてこそだと思う。ある意味こんなに大好きな漫画のキャラっていないなぁ。
 とても食いしん坊で(というかいやしんぼで)、文句が多くて、おこりんぼで、わがままで、マイペースで。すっごい、かわいいの。
 ぜんぜん、懲りなくて、しぶとくて、能天気ぶりが最高なの。
 わらわが一緒に住んでくれるならがんばってわらわのごはん代くらいかせくぞと思うのです。でもすぐに文句を言いたくなりそうだけど。
 でも、なんだかんだといいながら伊平次がわらわを追い出さないのはわらわとの生活が楽しいからだと思うな。(いや、伊平次はまれに見るお人よしというかあるものをそのまま受け入れる人だからという部分も強いとは思うけど。)
 このお話、自分にとってはわらわは大好きな人で、伊平次は尊敬する人かな。伊平次のバランス感覚って最高なのよ。

 しかし、いいなぁ、伊平次がうらやましいなぁ。ずるいなぁ。独り占めなんて。

(とか言ってるとじゃぁ、お前が一緒に暮らせという声が聞こえそうだが。)
 ともかくわらわに会うために頻繁にこの本を開く3号ですが、もういいかげん話がわかっていても次の絵が判っていても、次の言葉がわかっていても彼女の言動と伊平次とのかけあい漫才に大爆笑してしまうのです。
 そこには確かに会話の間とか登場人物の確かな息遣いがあるからのようにも思います。
 
 坂田さんのお話はどんなに不思議な話でも脅かしたり、説得する風でもなくいつもその「確かにそこにある。」という形でお話が私の前にあらわれます。
 その気持ちよさが大好きです。わらわもなぁ、絶対、いる、もんなぁ。

 と言ってみたところでこんな文章じゃぁわらわのすばらしさは判りません。坂田さんの「伊平次とわらわ」
を読んで3号とお話をしてほしいです。よろしく。

高野圭吾さんの事

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高野圭吾さんの事を考えていたら以前HPを作ってた頃に一時かいてた圭吾さんのライブの自分の備忘録を読みたくなって探してきた。

探すの大変だったんで、自分の覚えの為にブログに再投稿しておく。

・・・中2病全開で恥ずかしいけどね。ここに書いてある事相変わらず思ってる痛いやつだけどね。

今も私に圭吾さんがもたらす世界は相変わらず混沌だった。

「答え」みたいなのは出る日は来ないかもしれない。

それでいいのかもしれない。

 

平成13年5月3日
11区の第1木曜日に高野圭吾さんのライブがあります。圭吾さんのことを何一つ知らない自分がはじめてライブに行けたのはやはり11区のマスターの柳瀬るかさんのおかげでしょう。

 基本的に一人で切り盛りしているバーの空気はやはりマスターの雰囲気、であり人柄だと思います。
 11区の事をバーと言ってしまっては少し違うかもしれないですが、店の雰囲気については同じ事が言えると思います。もちろんステージ中は歌い手さんであったり、演奏をしてみえる方の世界が広がりますけどね。
 で、11区という空間は本当に居心地がいいんですよ。本当に安心できて楽しい。心がほっこりしてくる。何度も11区に通う内にそれは、るかさんの持ってるものなんだなぁ、というのが徐々に自分の中で明確になっていきました。そうなると本当は通いたくなるのが必然。
 でも、でも、通うのにはちょーっと遠すぎるので仕方なく東京に出向くならば「ライブを聴きたい」でもなく「お酒を飲みたい」でもなく「るかさんに会いたい」から11区に行こうとなる。
 5月に仕事と見たい舞台の関係で東京に行く事になった自分は迷わず11区へ行く事をスケジュールに挟み込みましたね。


 で、この辺りも運命だなぁ。と思うのですが11区のサイトのスケジュールを見ていける日の出演者の方を見ていて圭吾さんの写真を見てその日に決めたのでした。写真がなかったら行かなかったかもしれない、日にちが合わなかったら行けなかった。本当にタイミングですね。
 そして、運命の5月3日。どうしたのとるかさんにびっくりされながら「るかさんに会いに来たの」といいつつライブの始まりを待ちました。
 始まった途端。
 …どこかにさらわれてしまいました。
 圭吾さんの歌は私にとっては1曲、1曲がひとつの物語のようでライブは短編小説の集まりのようです。そう、つまり1曲、1曲全然違う世界へさらわれていくんです。
 ものすごい嵐のような体験です。くらくらとめまいがしてくるのに絶対に目が離せないんです。
 圭吾さんの歌を誰かにたとえるというのはやっぱり全然思いつかないんですが、種類としては「ロルカのうた」の世界のようかもしれません。一つ一つの歌がひとつの世界で、何もかもがある。そのひとつの世界に生きた力があるみたいな所がかな。
 ステージとステージの間、自分はもう全然帰ってこれなくてそれこそまともな受け答えひとつできなくなっているような気がします。
 圭吾さんの曲を聴くとなぜだか泣いてしまいます。哀しい曲でなくてもです。哀しくてでもなくうれしくてでもなく、かわいそうでという訳でもありません。自分が何を感じているのかよくわからないのです。圭吾さんの歌は私にとっては自分自身が知らない自分の感情をひきだしてくれるものでもあるみたいです。
 今のところそれは自分にとって大きなひとつの謎です。謎解きができる時また自分の前に知らない世界が広がるのかもしれません。

 

平成13年6月7日
 6月7日木曜日、11区での圭吾さんのライブ体験、2回目です。
 仕事を無理やり終わらせて強行突破の遠征です。これがいつもだったらさぞかし仕事が早いだろうとわれながら感心してしまいます。無理やりなスケジュールの中仕事をしつつも圭吾さんや11区のことを思うと自然に顔にしまりがなくなっていく自分。
 周りの人間はさぞかし不気味な思いをした事でしょう。でも、にへらっとゆるんでいく自分を止められないんだもんなぁ。
 新幹線に乗って東京に向かう。「本当に贅沢な事してるよなぁ」と思いつつも「これがあるからがんばって仕事をしてるんだい」と自分で自分に言い訳してました。なんにせよ、落ち着かない。新幹線に乗ってると言う事は何らかのトラブルで新幹線が止まらない限りライブに行けるという事なのでもうすっかり足は地につきません。
 11区についた途端、るかさんに「どうしちゃったの」と言われました。そうですよね、三河の人間(しかも社会人)が平日に東京の新宿にいるんですから。しかも当日の2時、3時まで決定でないので行きますと事前にも言えない。「どうしても、きたくてきちゃったんです。」と答える。びっくりの分だけ喜んでもらえてとてもうれしい。
 圭吾さんもカウンターに。それだけでへらへらしてしまう自分。生きててよかったよなぁ。
 本当は前回の、自分にとっての初めてのライブがあまりに鮮烈だったのであれは夢だったんじゃないんだろうか、とかあのショックは思い込みだったんじゃないんだろうかと多少、前の日までは不安になったりしました。
 が、始まってみるとそんな思いは本当に馬鹿な与太話でした。先回のライブの後、いろいろと調べてみたんですが自分で調べられた範囲では今現在で手に入る圭吾さんのCDやレコードはありません。
 とても久しぶりにライブに、その場所に行かなければ歌を聴けないという環境です。ある意味、残念な事ではあるんですが(CDがあればもちろん速攻でほしいもん。)もう一方でとても贅沢なことだと言う事を思い出させてもらいました。
 CDなどで聴けてもライブはやはり別物で楽しいんですが、やはりここでしか聴けないというものとは違ってきてしまいます。余計なものの入り込まない贅沢。自分がどうしても圭吾さんの歌が聴きたいんだと言う事がはっきりと自分で認識できる幸せ。
 で、やっぱり、ライブが一番最高だと思うんです。やはりあちらこちらにさらわれる自分。なんて心地のよい遭難なんでしょう。曲の最初にがつんと来るものがある。あれはなんなのでしょう。
 圭吾さんに「リクエストはありますか」と言っていただいたのに、シャンソンをほとんど知らず、ステージで圭吾さんが歌っている曲名すら知らない自分にはリクエストもできずちょっと、寂しかったです。でも圭吾さんだったらどの曲でも幸せなのでそう言った意味では残念な思いはせずにすみました。でもそのうちリクエストができるようになったらうれしいな。先日、教えてもらって覚えたタイトルでこれは大好きという歌は「ウイスキィーが水に」「アコルディオン」「サンフランシスコの六枚の枯葉」でした。ざくざくと好きな曲のタイトルを頭に入れていきたいです。


  この日は11区から新宿まで一緒に帰ってくれる方がいたり(ものすごい方向音痴なんです。)泊めてくれる人がいたりとありがとうを言いたい事が多かったです。もちろん11区や圭吾さんにもありがとうで
す。
 このところ幸せな事がとても多い自分です。

 

平成13年7月5日
 11区は遠かった.…いえ、愛知県から東京はもう、遠いと感じません。新宿駅から新宿3丁目の11区が遠かった。2時間近くさまよってしまいました。
 最後の手段はタクシーしかないか!!と思ったよ。歩くのは大好きなんですが、このままではライブに間に合わなくなってしまう。と最後の方は半泣きでした。時間前につけてよかったです.るかさんにも「なんで電話しないの」と言われてしまいました。電話…そういえば持ってたのよね、携帯電話.相変わらず電話を使いこなせない自分です.
 でも、いいんです。圭吾さんのライブに間に合ったならオールオッケイ。ちょっとしたお楽しみです.
 ピアノの加藤るり子さんも素敵です.話してるときはとてもかわいい人なんですが、ピアノは乾いた香りがします.シンプルで力強い感じ。土の香り、しっかりと根をおろした樹木の空気。街の息吹。とにかくかっこいいです。「群集」のピアノが本当に素敵だった。自分はトミー・フラナガンルービンシュタインなど
結構華やかな派手なピアノが大好きなんですが、違った意味でいいな、と思いました.
 そして、圭吾さん。このページは、「樹の音 街の音」とつけたんですが、どうしてかというと私にとって圭吾さんの歌がそうだからです。
 もちろん歌なんだけど、もっと直接に樹の音、街の音、風の音、水の音、悲しみの音、喜びの音。表面を突き抜けて直接、核心の部分が溢れ出す感じ。 街の言葉 樹の言葉…といってもいいかもしれない
です.この日の圭吾さんはなんだかやさしくて、静かな厳しさや切なさが多かったような気がします.「アコルデオン」もそうだったし、「幽霊」も。タイトルは判らないんだけど、歌詞の途中で「…バラは咲かない…」てはいるのや、あと、本当にやさしく切なかったのが、これも歌詞の途中で「果たされない約束がたく
さんしまいこんである.といった意味が入っていたもの(歌詞すらうろ覚え…)
 幽霊のね、「ふるい傷(いたみ、だったかなぁ。)のように」っていう(多分)くだりがあって、とても切なかった.
 不思議な感じですね.やっぱり大好きだなぁ.
 最後のアンコールの曲がめちゃ、チャーミングでかわいかった。(タイトルも歌詞もわからないあたり、
何のレポートにもなってないが。)このためだけに東京へ行く.全然OKですね.

 最後に、ちょっと、私信になってしまいますが、帰りは新宿新南口まで11区の方に送ってもいました.
ありがとうございます.(いつもごめんね。)


 
 

平成13年7月29日
 来週はやっと圭吾さんのライブの日がやってくる。8月2日ね。
公私共にちょっとばたついているのでライブは少し控えるしかあるまいと思っているが圭吾さんだけは別。一ヶ月の空白時間だって長いのに、そんな優等生なこと言ってられるか。
 このHPは一緒に仕事をしている人たちにも目一杯、宣伝してるのが言ってしまう。月の第一木曜日は
半日で帰る。まぁ、みんなにはとうに言ってる事だけどね。
 一ヶ月の間、歌、声としては圭吾さんに触れられないのでよく圭吾さんの事を考える。夜の空の色や、道場で一人でいるときのシンとした空気の中で思う。楽しいよ、そういうの。
 掲示板に書き込んでくれてる人が言っているように圭吾さんは「詩人」「孤高の詩人」がぴったりくる。わたしもロルカを連想したし。
 でも、書き込みの「孤高の詩人」をみて思い出したのが、山之口獏。獏さん。獏さんのありかたも圭吾
さんのあり方と通ずるものがあるような気がする。
 獏さんは私が詩人としては世界で一番大好きな人。小学校の時に転んで今では大好きな詩人も何人かいるが獏さんはやっぱり別格で輝いている人。
 ふるさとが沖縄で、それをとても愛していて、愛らしくて、しなやかでしたたかな力強さがあって、シンプルなことの美しさと怖さ、ありとあらゆるものがつまった獏さんの詩。
 圭吾さんも自分にとってはそう。この辺りに自分の好きなものの共通項があるような気がする。

 獏さんの詩を読んだ後、圭吾さんの歌の言葉を感じる。
 圭吾さんの歌を聞いた後、獏さんが踊った琉球舞踊を思い描けるだろうか。歌が、音楽が、指笛が。
 
 似てる、と言うのは誉め言葉ではないかもしれないけど、こう亜流だと言う事でなく同質の匂いを感じると言う事。
 一番共通項として思うのは、あんなに厳しくすべてを見抜いているよなのに、なおかつすべてをいとおしんでるあの力強さが大好き。
 はやく、2日にならないかなぁ。 

 

平成13年8月2日
 「そうはなれないけど、乞食であるか王様でありたい」
 近い言葉でそう、圭吾さんが熱く語った。めずらしい言葉ではないのだけど、物凄く真意が伝わりにくい言葉のひとつのように思う。
 もちろん自分も自分の感じるままにしかその意味を探れないんだけど、圭吾さんの歌の記憶をたよりにいろいろと考えた。
 「乞食であるか」の部分は「貧乏であるから厳しい素晴らしい作品が出来る」というよな考え方も時々見かけるが、絶対にそうではないと思う。
 お金はあったほうがいいし。お金が手に入るようになってその人の作品の世界が壊れるならそれは全然駄目なような気がする。
 先回、このページに書いた獏さんは詩をひとつ作るのに何年もかけるような人だったのでいつも生活は火の車だったんだが、奥さんが生活の事について聞かれたときに「苦しかったけど、すさんではいませんでした。なにしろ私達には詩がありましたから。」ちょっと違ってるかもしれないですがそう表現して
た事があります。とてつもない強さと健やかさと確かさが伝わる。
 「乞食であるか」というのは「乞食であっても」そういったものが歌や言葉によって持ってられるだろうかという自分に対しての厳しい問いかけに聞こえた。
 「王様でありたい」の方が自分には難しいかな。まさに自分にとっては圭吾さんて王様のようだから。
「ありたい」という問いかけが難しい。
 それも先に書いた「乞食である」の問いかけに通ずるものもあるけど、それだけじゃないような気がする。

 私にとっては圭吾さんの歌は非常にシンプルで直接響くものがある。
 「夢」を歌ってもこうあいまいなものでなく、「夢をみる事」での悲しみや切なさや喜びがはっきりとそこにあるように思う。子供達や大人や女を歌ってもたとえば今日のパンをどうしようと途方にくれる生活の美化されたものでない、そのままの苦しみや、それでも生きていく命の強さが手に取れるような気がする。どう表現しても違うような気もするが「朴訥とした」と表してもいいような判りやすさや深さを感じる。
 それが乞食でも王様でも風でも幽霊でも…全てであるような気がする。
 うーん、どう書いても自分が思ってる事と違ってるような気もするなぁ。言葉って難しいなぁ。

 そういえば、自分、小さいころは図書館で本を読むことが本当に多かったんだが、気に入った海外の作品だと訳者が違うと比べて読むと事がよくあった。でも、そういう習慣があってよかった。
 圭吾さんとやっぱり訳者で物凄く作品て違ってくるよね。と話せたから。
 この辺り、ただただミーハー丸出しだった。

 来月をもう指折り数えてしまう自分だった。 

 

 

 
 
平成13年9月6日
 体調的には絶不調だった。
 ここの所、あまりに楽しい事が続き、上調子。しかも今週に入ってから貘さんの詩集はやってくる。圭吾さんのライブはもうすぐで、週の頭に夏バテであんまり食欲ないなぁ、と思っていた事をすっかり忘れ水曜日に楽しく焼肉でお酒を飲んで調子に乗って飲んでしまったのだった。
 当日はよかった。気持ちよく酔っ払い。しかも明日は圭吾さんのライブ。もう、この世の春って感じではしゃぎまくり。すっかり自分の体調を忘れ、レバ刺は食べる。ゆっけは食べる。…ただでさえ胃腸が弱いくせに。…ただでさえこのところちゃんと食べれてなかったくせに。しかも何を思ったかその日は焼酎で通す始末。
 ライブ当日の朝。5時に気持ちが悪くて目がさめた。正直、別の人のライブだったらチケットをとってても行かなかった。きっと会社にも行かなかった。
 もう、新幹線に乗ってても気持ち悪くて気分は浮ついてるのに、頭はふらふらする。もう、すでに何がなんだか判らない状態で東京へ向かった。
 11区でも最初はさすがに水をもらった。だって、圭吾さんのライブの途中で気持ち悪くなったら悲しいんで。
 だから最初のステージは本当の本当にお酒の入ってない状態で聴いた。よく考えたら初めて。圭吾さんの歌で感情が大きくふれるのがお酒が入っての事とやはりまったく関係ないことを確認できてしまった。

やっぱりちょっと泣いてしまった。悲しい曲で泣いてしまう訳じゃないんだけどね。最初のステージが終わった時にるかさんが「今日は静かじゃない。」と言っていたが、圭吾さんのステージは後はしばらくいつも静かだと思う。茫然自失。なんだか帰ってこれない感じがする。
 それがどこからかが自分でもよくわからないんだけどね。
 で、気持ち悪いのもどっかに飛んでいってしまった。のどもと過ぎればなんとやらでそこからはボトルを出してもらってバーボンを飲んだ。ジャックダニエルってやっぱり美味しい。

 今回は「ウイスキィが水に」があった。やっぱりこの曲、大好き。でも、以前聞いたのとは全然雰囲気が違っていた。
 とても緩やかに流れるように力強くて。くらくらした。バーボンを飲みながら(聴いているときは飲んでる余裕なんてないんで正確に言うと少し違うが)生でこれが聴けると言うのは本当に贅沢だと思う。
 なんだか、3つのステージとも嵐のように終わってしまう。物凄く濃密な世界。麦秋のことを歌った歌で
「いつもこんなに素晴らしい日々がいつも続くと思ってはいけない」といったようなくだりがあってドキドキしてしまった。
 …だって、自分 日々楽しいもんなぁ。本当に。
 「幽霊」も「バラ通り」も「サンフランシスコの6枚の枯葉」も聞くたびにもっと大好きと思ってしまう。いつもこれ以上ないくらいまでに大好きなのにちゃんと先があるのが圭吾さんの凄いところだなと思う。

 ライブの曲の中で(先回もあったな、たしか)遠く離れてしまった恋人の事を地図を広げたりして想う歌の中に 「地球(世界だったかなぁ)が広いなんて誰がいったんだろう」 という所があって本当に同感。
 自分が何より切実に想うのは距離の前に時間だけどね。…来月が遠い。 
 でも、頻繁に聞けたらそれこそ自分が収拾つかなくなるかもしれない。

 とても自分にとっては力のあるライブ、歌だな。圭吾さんの歌に出会えて本当によかった。そう思えるものが増えていくのはやっぱり凄い事だと思う。
 別にいい子ぶるわけじゃないけど、自然にありがとうって気持ちになれるのが毎日楽しい理由かもしれない。

 

平成13年10月4日
 10月に入ってからどうも上手に寝付けなくて今年は中秋の名月から3日まで本当にたくさんお月見をしました。
 1日の月は本当にきれいだった。朝から夜まで大雨が降ってたんで正直今年の中秋の名月は諦めてたんですが、なんだか夜頭の奥のほうが妙にさえててちょっとお散歩と外に出たら、こうこうと惜しげもなく降る月や星のひかり。
 うしろにあの白い輝きの塊があって、手前に夜があって、月や星の形に切り取ったところからあふれ
てこぼれてるように鮮やか。
 足元がぐらぐらしてとても不思議でした。自分の中で説明できないような風景や何かに出会うと自分の感情がどうなってるのかよく判らなくて心細くて、怖くて、でも心地よくてくらくらします。素面だったはずなのに、お酒が入ってるみたい。

酔ってるは確かかもです。
 4日の圭吾さんのライブでの曲で これは、昼間の青空ですが、そんなあんまりに風景が鮮やかだと世界が違うみたいというくだりがありました。月明かりもあったかな。以前も聞いたことがあって大好きな曲なんですが、今回は特に夏の深い青空や、冬の夜空が目の前に浮かぶ様でした。あんまりきれい過ぎて怖い。かなしいっていうやつかな。曲もとても切ない曲です。自分と他者の曲。別れがあるっていうのはちゃんと出会ってるからなんだよな。そういう贅沢な痛み。
 でも、やっぱり痛みは痛みなんだよな、と思ってしまう。素敵な曲です。
 …しかし、曲を知らない人には何の事かさっぱりだろうし。知ってても…なにを言ってんだといった感じかも知れない。でも、自分は聞くたびになんだかよくわからないんだけど不思議な気持ちになるの。
 
 今回のライブ、るりこさんのピアノの後「ウィスキィが水に」からでした。やっぱり凄く大好きな曲。「弱いものが力を取り戻す」かな、そんなくだりもドキドキするし。いや、もうなにからなにまでいいんだけどね。
 そういい始めれば、圭吾さん、何から何までいいんだけどね。で終わってしまうんだが。それじゃ、こんなの書いてる意味がなくなってしまう。
 圭吾さんのうた。惜しげもなく降るものがあります。そこからあふれるものが。ちょっと呆然としてしまいますが心地いいです。きっと次に聞いたらもっと大好きになるんだろうなと思うと変な気分です。
 帰りの夜行バスの中、久しぶりに熟睡してしまいました。本当に本当に幸せな気持ちで。子守唄っていうのとはちょっと違うんだけどね。
 …でもちょっとはそういう効果もあったんだろうか。圭吾さんのライブは嵐のように過ぎ去るから気づいてないだけかもしれない。今月はちょと無理をしたけどやっぱり行ってよかった。いろいろと上手に表現できないけど、これだけは間違いのない本当のことだな。
 

平成13年11月1日
 11月1日 20時。私、会社で端末に向かってたよ。
 …圭吾さんのライブがもうすぐ始まるであろう時間に。まぁ、そういう事もあるよね。当日の昼までは行くつもりだったんだけどさ。
 でも、行けなかった、というより行かなかったというべきなんだろうな。だって、仕事、自分が好きで楽しくてやってるんだもんなぁ。環境的にもとてもいいので本当に恵まれていると思う。(こんなに好き勝手やってて仕事があるという時点で恵まれているという噂もちらほら。)
 圭吾さんのライブももちろんまた行く。だって、大好きだから。しかも来月の11区でのライブは私の誕生日だし。
 やはり、やりたいことはやったもん勝ちだと思う。 

 
 
平成13年12月6日
 第一木曜日、11区での圭吾さんのライブの日。
 なんとか、都合をつけて(無理やりつけてもらって)会社を早くあがる。いいじゃん、誕生日なんだから。
 とても暖かくて気持ちのいい日でした。ライブも本当に素敵だった。圭吾さんの世界に出会えたのは本当に幸せです。
 自分が自分であることの幸せを確認させてくれます。出会うタイミングってあるんだろうけど、今が今で本当によかった。
 最後にるり子さんのピアノで圭吾さんやお店にいた皆さんにお誕生日の歌を歌ってお祝いをしてもらいました。…なんて贅沢だったんだろう。
 いろんな人に向けて「本当にありがとうございました。」
 ここまで生き延びてきて本当によかったよん。


 
 
平成13年11月21日
 日本語が自分の言葉で本当によかったと強く思うことがよくある。もう、ほとんど「神様、ありがとう」といった気分。
 中也や貘さんの詩。はるきさん(大阪の人がかなり羨ましくなるが)や寺山修司の物語に触れる瞬間。
 そして、圭吾さんの歌を聞くときもいつも思う。
 今回は会社の休みもうまく重なったので一日余分に休みを取って横浜のシャノアールという店に圭吾さんの歌を聞きにいった。「幽霊」とか「ウィスキィが水に」とか、子供の歌とかね。水の歌(あれは「ただの水」で曲名はいいのかなぁ)聞くたびに本当に大好きになっていく。「幽霊」なんて、いつもびっくりするくらい表情が沢山ある。
 うた、曲、詩、言葉。とにかく言葉に力がある。いきいきした不思議。いいなぁ。
 圭吾さんが、「やっぱり自分は日本語しかわからないから、日本語で歌いたい。」といってるのを聞いて、とても嬉しかった。
 いろいろな話の中や、あと歌を聞いていても 言葉を大切にしている事、伝える事への祈りがそこにあ
って、とても幸せだった。
 来週は、11区でのライブ。うれしいなぁ。

 

平成14年5月2日
「かんじる」と「わかる」というのは当然なんだろうけど全然違うものだ。
 「わかる」から「かんじる」訳でも「かんじる」からわかる訳でもない。
 自分の事を言えば小さいころから落語が好きだったが噺の内容が判るかと言われればほとんど判らないというのが正直なところだったと思う。(じゃぁ、今ちゃんと判るのかと言われると判らない部分も沢山あるのが情けないところだが。)判らなくても十分に楽しめた。噺家さんの手の動き。扇子の使い方。
噺の間のとりようでふと着物の襟元を正す様子や雰囲気にどきどきした。意味がわからなくても表情や声の調子で腹のそこから笑える位に楽しい噺も多かった。

 もちろん一つの作品を目の前にしたとき「わかる」というのは大きい。流れが判る。内容がわかる。意味がわかる。背景がわかる。意図がわかる。
 わかった気になっているだけの時もあるとは思うが、それでも「わかる」という気持ちよさはその作品を楽しむ大きな要素になる。ただ、その大きな要素が外れてもなおあふれるものが沢山あるというのはすごい。
 圭吾さんの歌にはそのすごさがあふれている。「かんじる」というのもかなり大雑把なくくりだ。腹にすとんと収まる。胸にがんがんくる。頭の後ろをがつんとしたショックがある。体中がじんわりやわらかくなるような気がする。ちょっと考えただけでいくらでも全然違うものが浮かぶ。

 気持ちがよかったり、気持ちが悪かったりすること。
 気持ちがいいだけでなく、おぼつかないような気持ちの悪さを感じさせ、その落ち着かなさを何度も確かめたくなるような気持ちにさせるものがある。
 誘惑するものがある。何度も確かめたいという気持ちを際立たせるものと同時に「知りたい」という気持ちをあおるものがある。
 圭吾さんの歌はライブでしか聴いたことがないので比べようはないがライブだからこそ強く感じられる事柄のような気がする。

 誘惑されるというのはライブでは必須条件だ。(少なくとも自分にとっては)どんなに完成度が高くても自分とチャンネルが合わなくて誘われるものがなければつまらないし、そこにいるのが苦痛でしかない。
だったらごろごろと寝てたほうが何百倍もいいような気がする。(だから、ライブでなく誘惑されるものが満ち溢れるものというのはそれこそすごいと思う。)
誘われれば自分の中で動くものがある。動けば変わっていくものが必ずある。
 変わり続けるものが、ある瞬間、唐突に自分の中で形になることがある。それは見えると表現できるような鮮やかさをもたらす。 変わり続けるものが、ある時、自分の中にまるでずっと昔からあったかのようにそこに確かな形として存在することがある。それはこれでよしと思えるような充足感をもたらす。
 両方とも「わかる」ということかもしれない。いつかどちらがやってくるのか、どちらともがやってくるのか、それとも全然知らないものがやってくるのか。そんな事も思いながら自分の中では混沌の中にある圭吾さんの歌を聴く。
 その、混沌の幸せを感じながら。

 


 
平成15年11月16日(1)
2003年11月16日 新橋シャミオール 
ピアノ 上条泉 ギター 佐藤風太
PETAX-TEA Chanson Live
高野圭吾 独唱会

初めて入る場所だったのでライブが始まるまではとても緊張しました。
小心者な自分は周りのお客さんがやけにかっこよく、垢抜けて見えてどうも自分が場違いなような気になっきたりします。
 自意識過剰だよなぁとも思うんですが、ドキドキして落ち着かないのは事実なんだよな。
 ま、そんな緊張もステージが始まってしまえばふっとんでしまうんですけどね。

 一曲、一曲がそれぞれに始まりがあって、終りがあるそれぞれの物語で、それぞれの空気があり、それぞれの息吹があり、それぞれの命が存在する。
 もう、最初のステージは嵐のように過ぎさって、呆然としてしまいました。とにかくかっこいいステージでした。
 最初のステージの最後の曲(相変わらず曲名が判らない自分ですが)
「連れていってよ はるか海の彼方へ そこにはこんなみじめさはないはず」「みんなが帰ってしまった後にも僕はひとりで波止場で海を見ている」と歌いあげる言葉にくらくらしました。
 もう、今は「連れて行ってよ」と思わない自分ですが、確かにそう思っている時期があった事をまざまざと目の前につきつけられるというのが一番近いかなぁ。
 あの頃の幼さや怒り、憤り、あの喉がひりひりと渇い感触。果たされなかった願望。少し間違ってるが故にどこまでも一方通行な憧れ。いじらしいまっすぐな思い。
 …どうもうまく言えないんだけどそういった今よりもさらに勝手で独りよがりだった頃の自分の感情を少し愛おしさと胸苦しさと一緒に掘り起こされる感じかなぁ。(駄目だ、何がいいたいのか自分でも判らなくなってきた。)
  「サントゥアンからクリニャンクールまで」もそういう複雑なざわざわした気持ちになる歌です。「おそらく幸せと言っていいのだろう。」という言葉なんかくらくらします。

相変わらず圭吾さんの歌は言葉は大きく揺さぶられるものがあるのに自分でもそれが何なのかが判然としません.不思議だなぁと思います。
だから、また聴きたくなるんだよな。

 2ステージは色っぽかったです。
 しっとりと、密度の濃い世界が展開される。
 
…自分の中でもう少し整理しておきたいので2ステージ目は別にします。

つまり次につづきます。

 

平成15年11月16日(2)
2003年11月16日 新橋シャミオール 
ピアノ 上条泉 ギター 佐藤風太
PETAX-TEA Chanson Live
高野圭吾 独唱会

ウイスキィが水に」で始まる第2部。
この曲で始まる圭吾さんのステージは何度が聴いていて、聴くたびに「あぁ、始まるんだ。」だと、胸がきゅーとなります。
 「雀のうた」(…いや、題名が違うかも)もいつ聴いても不思議だなぁ、とおもいます。よく聴いてると何も言ってないんだよな。だからこそそこに何もかもがある。という不思議。 
 
圭吾さんの歌は他の歌もそういう時があって、何かを語る、とか訴えるとか、伝えるものじゃない。
 どこかに確かにある空気や空間をぽんと切り取ってみせる。それがぶつかってくる訳でなくこちらがそれに魅せられる、近づきたくなる。引っ張られるのでない。伝わってくるでなくて、こちらから手を出したく
なる。そういうもどかしい気持ちになる事があります。

 ギターのある圭吾さんのライブは初めて聞いたんですが、とてもよかったです。「おいしい水」やたばこ
を歌った歌なんて本当にすごかった。本当に空気が濃かった。
 2部は本当に風太さんのギターがよかったです。とてもシンプルで心もとなくなる位に不安を誘うようなきれいな歌もありました。ギターも、本当にきれいでドキドキした。(きれいなんだけどね、嘘がなくて、薄っぺらくなくてくらくらする。)

 そして、上条さんのピアノのすばらしい事。くるくると表情が変わっていく。かっこよかったり、かわいかったり、とても愛嬌があったり。矢車菊の歌のピアノは無邪気でやさしくて、かわいくて。1部の最後の曲や「幽霊」ではどこまでもかっこよくて、1部の「ムッシュ ウィリアム」(で、いいのか不安だ)ではなんだか妙に楽しそうで(ちょっと意地悪く。)、どの曲も何かがあふれんばかりなのに、それでいて余分な事がひ
とつもない。
 例えばかっこいいと一言で言ってしまうとひとくくりの様だけど、「幽霊」と1部の最後の曲と「美味しい水」ではそのかっこよさが全然違う種類のものです。

 圭吾さんも風太さんも上条さんも余分なところがなくてとてもシンプルで力強かった。2部は特にそれを感じたステージでした。とてもしたたかな息遣い、確かなものを感じました。そのしたたかさがとても色っぽかった。

1部はとても華やかでドキドキしました。清清しいそして甘酸っぱいものを秘めたものがありました。1部
と2部ががらりと違う魅力というのも今回すごいところだったと思います。

 

ミーハー3号のおすすめSF

SFの古典とは?という質問をしてくださった方がいて

「ウエルズ、ハイライン、アシモフあたりかなぁ。」と答えてみたのですが、具体的なおすすめをちょっとまとめてみたかったのでブログに書いてみようかなと思う。

しかし、ミーハーなので「古典とは?」みたいなところからは外れるだろうしSFファンの方々からは眉をしかめるようなラインナップかもしれないけどうっかり見かけたとしても「こんなのがあってもいいさ」と笑って見逃してほしい。

取敢えず日本SFは抜かして海外編をやる。(だってそうしたら平井和正でとりあえず始まって終わってその後また再開するから。) 

あとブラッドベリはSF作家だけどSFというより幻想文学だったりホラーだったりするんで王道からは外れると思うんでまた今度にする。

まずは外せないのは

 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 いきなりハイラインでもアシモフでもウエルズでもないけどこれは外せない。

冒頭は少しだけ読みにくい。

・・・ごめん、嘘。冒頭はかなりとっつきにくい。でもそこを超えると本当に見る見るうちに読み切ってしまう。邦題が秀逸。めっちゃ面白いから。

科学的な空想に基づいたフィクションというSFを体現してる作品。

「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」3部作最後まで読んでって思う。本当に面白いから!!

でも自分の本棚にはこれしか見当たらなかった(涙)

おっかしいなぁ。先月「星を継ぐもの」はよんだんだけどなー。

 

タイム・マシン (1978年) (ハヤカワ文庫―SF H.G.ウエルズ傑作集〈2〉)

タイム・マシン (1978年) (ハヤカワ文庫―SF H.G.ウエルズ傑作集〈2〉)

 

「タイム・マシン」H・G・ウエルズ 

ここからSFが始まったとかうっかり言うとSFファンから総叩きにされそうだけどやっぱり「タイムマシン」とか「宇宙戦争」とかどきどきして読んだ。

ふん、ミーハーだけど自分だってSFファンだもん。

面白いし押さえておいてもいいじゃんって思う。

 

 

ラモックス―ザ・スタービースト (創元SF文庫 (618-8))

ラモックス―ザ・スタービースト (創元SF文庫 (618-8))

 

 「ラモックス」R・A・ハイライン

「スチュアート家のペットは、バカでかい宇宙怪獣だった。その名もラモックス。」

これを読むたび直後は

「世界で一番馬鹿らしくて最高で面白い小説はラモックスではないだろうか」

って頭の中が暴走するくらいにラモックスは最高。

本当に面白い。難しい話とかいいから。読んで笑えて元気になれればいいじゃん。

でもしっかりSF。

妹にも読み聞かせた。声に出すと笑いをこらえるのが大変。

表紙、挿絵の天ちゃんが「あまのよしたか」とひらがななのも最高。

「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」フィリップ・K・ディック

言わずと知れたブレードランナーの原作。公開当時は当たらなかったのにじりじりと評価が上がった映画だよね。

今の表紙より以前の表紙の方が好みなのでアマゾンでなく写真でアップ。

邦題もよくね??めっちゃかっこいい。

ブレードランナー」難解だっていうけど「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はディックにしてはわりとストレートな作品だと思う。

・・・てか、他がわけわからなすぎなんだが・・・面白いけど。

しかし、何故「ブレードランナー」が難解かと言えば、やはり小説では色々丁寧に説明されている事を映画だと説明できないって部分が大きいと思う。

ブレードランナー」みて「わっかんねぇよ(怒)」って思ったら原作を読んでみるといいかと思う。やっぱ設定とか押さえてた方が面白いもん。

最初からディックらしくとばしてて楽しいから。電気羊のくだりは好きよ。

 

 

 「人間の手がまだ触れない」ロバート・シェクリイ

知的生命との接触にまつわるホラーとか時間と次元の話。

表紙が可愛らしかったんで(かわいくない?)当時ジャゲ買いしてよんで「うぉー。」って怖くなった短編集。

ブラックユーモアもりもり。でも楽しい。

読んで損はなし。

 

太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊 (スペース・オペラ名作選) (創元SF文庫)

太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊 (スペース・オペラ名作選) (創元SF文庫)

 

 太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊 スペース・オペラ名作選

スペース・オペラ楽しいから。宇宙冒険大活劇。

色々楽しめるんで名作選最高。どれも楽しいけど「お祖母ちゃんと宇宙海賊」「夜は千の眼を持つ」は特に好きかな。

色々読んでみてここから好みの作家と出会うのもいいと思う。

 

地球人のお荷物 (ハヤカワ文庫 SF 68 ホーカ・シリーズ)

地球人のお荷物 (ハヤカワ文庫 SF 68 ホーカ・シリーズ)

 

 ホーカーシリーズ「地球人のお荷物」「くたばれスネイクス!」「がんばれチャーリー」ポール・アンダースン&R・ディスクン

二人の共著になると途端に楽しくハチャメチャになるこの2人。

最高。

テディベアな宇宙人が巻き起こすハチャメチャな騒動は最高。

読んで、本当に読んで。楽しいから。

この2人、ひとりひとりになると硬質な作品を書いたりするんで面白い。

ホーカーシリーズ「あまのよしたか」シリーズでもある。挿絵も最高。

 

 

時間衝突 (創元推理文庫)

時間衝突 (創元推理文庫)

 

 時間衝突 バリントン・J・ベイリー

センス・オブ・ワンダー

めくるめる世界。びっくり箱。

完成度とか感動的とかたぶんそういうものとは無縁の世界。

読んでるとびっくりして、びっくりして、ビックリして終わる。

時間SFとはどういうものか読んでみないとわからないのでみんな読んでみるべき。

聖者の行進 アイザック・アシモフ

アシモフのクールな視点は気持ちいい。

色々説明不要な作家の一人だと思う。

どれ読んでも面白いけどこれ、真鍋さんの表紙がだいすきなんだよなー。

 

スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)

スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)

 

 スラン  A・E・ヴァン ヴォクト

「新人類」って言葉、本当は怖いよねって気持ちがじわじわくる。

この作家は本当に凄くて今読んでも全然古くない。

「宇宙船ビーグル号」も絶対に読むべき。(でも本が行方不明・・涙)

この人に直接、間接的に影響を受けてないSF作家とかSFアニメとかほとんどいないんじゃねって思うくらいにいろんなもののおおもとになった根源的な話をかいている。

どの話も超絶面白い。

 

デリラと宇宙野郎たち 未来史1

デリラと宇宙野郎たち 未来史1

 

 「デリラと宇宙野郎たち」「地球の緑の丘」「動乱2100」(未来史シリーズ)

R・A・ハイライン

 中編連作。

老いたる宇宙飛行士の悲哀とか月を売った男の最期とか本当にハイラインならではの物語が最高。

色々面白い。

歴史が編まれていくのを追えるのは面白い。

 

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

 

 幼年期の終り  アーサー・C・クラーク

はじめて読んだ時は読み終わったらさみしくなりすぎて行きつけの飲み屋さんに駆け込んだ。(実は初めて読んだのが二十歳の頃、遅いな!!!)

ずーんってくる。

面白い、うん、面白いとはちょっと違う。

色々考えちゃうね。

でもSFでこそ描き得た世界が凄い。

 タイタンの妖女  カート・ヴォネガット・ジュニア

最初、読んだ時はあんまり好きじゃなかった。

でも読み込んで来たらというか最近面白いと思うようになったのがカート・ヴォネガット・ジュニア

皮肉屋だなー。って思うけどなんかいいなと思うようになった。

人類救済に乗り出す主人公がかっこいいけどかっこ悪い。

最後までちゃんと読むべし。

 

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

 

デス博士の島その他の物語 ジーン・ウルフ

何度読んでも面白い。何度読んでも判らない。何度読んでもくらくらする。

そういう本。

ジーン・ウルフ殊能将之のサイトで読みはじめた。

あの抜群に頭のいい人がジーン・ウルフを語る時に

「判る必要はない、読んで面白ければそれが正義」的な事を書いていたので判らないけど後ろめたさはない。でもわからないのに面白いとかすごすぎる。

・・・でもわかったらかっこいいなとは思う。

 

番外

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 ぼくがカンガルーに出会ったころ  浅倉久志

日本でSFファンをやってたり海外SFを何作か読んでたらきっとお世話になっている浅倉久志さんの本。

彼の翻訳だからこそ、ディックもカート・ヴォガネットもジーン・ウルフも楽しく読めた気がする。

この本にある彼のSF作家の思い出はいい入門になると思うからこれを読んでそこからSF作家を探すのもいいと思う。

彼の文章は素敵です。SFファン的には大恩人な方。

 

本当はもっとあるけど今日はこのぐらい。

「オルフェウスの窓」を読んだ。ユスーポフ家に転んだ。(主に侯爵に転んだ)

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先日、きっかけがあり「オルフェウスの窓」を初めて読みました。

こういうのがあるのでネットはやめられません。出会いは大事です。

まず初めにきっかけをくださった方にありがとうございますを言いたいです。

大感謝です。

そしてこの作品を描いてくださった池田理代子さんに大感謝です。

 

読んではうだうだしてツイッターに書き込んでみたりまた再読したり、旦那に愚痴を言ってみたりを繰り返してたんですが、ツイッターじゃ足りないぜ!!って感じなのでまたブログを広げてます。

 

レビューではないんで未読の人には何がなんだかだと思います。てかこんなの読んでる未読勢だったら今すぐ「オルフェウスの窓」を読むのがいいと思います。

あとネタバレは色々でると思うんで未読の人はやはり読まない方が吉。

 

往年のファンの人はニワカがうだうだ言ってるだけなんでいらっとくるかもしれませんが、作品の力が巨大なのでこういうのも引っ張り上げてしまうから仕方ないなと笑って許してくれると嬉しいです。(あと初読了直後でこううわごとを繰り返してる最中というか・・・)

 

さて、感想というか愚痴というかうわごとというか何ですか

まずはなんで今まで読んでこなかったんだ自分、って感じですね。

池田さんは旦那の担当でベルばらも結婚して旦那の蔵書から改めて読み直した感じです。あと出崎カルテットの大ファンなんで「お兄様へ」はアニメから入って読んでました。でもオルフェウスの窓は読んでなかったです。

今回、家に文庫で2巻まであったんで読みだしたらあんまり面白いものだから後続巻も入手してきたんですが、あんまり面白いんで読み終わるのがイヤなくらいでした。

とても華やかだったり設定がドラマチックなんだけどこう駒のような登場人物がいなくてモーリッツのようななんか駄目駄目な子供もその生い立ちからくる「愛されて育った子供」の健やかさと健全さがあったりしてその人の失敗も後悔も行動も喜びも悲しみも納得できるというか、あとみんなちゃんと生きている。

最初の舞台が音楽学校という事で「音楽」が大きな軸で話が転がっていくんだけど、この音楽と祖国の革命に引き裂かれるあたりとか「変奏曲」のエドナンを彷彿させるなぁと思ったり、バルバラ姉さまが本当にかわいいなぁ、すてきだなぁとか・・・いや、女性いいですよね。

いや、本当にバルバラさん大好きで。

高野圭吾さんの訳詞にある、

 バルバリ バルバラ 世界は回る

 空を ごらん もうじきに春

 年ごとのリラ それが人生よ

 さぁ 涙をおふきよ

のままに幸せになってほしいなぁと思うのです。

 

て、ここまで前置きなんですが、第1部のラスト、なんか読んだ気がするんでここまでは以前読んだ可能性も高いんですが、第2部を読み終えた時点で既に終わりたくなくてまた最初から読み直してたりしたんですが、こう色々本番は文庫6巻からの第3部ですね・・・

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まぁ、第3部というよりユスーポフ侯、この人でしょう。

かっこいいじゃん、この人。ビジュアル、大好き!!!

・・・ごめんなさい、ミーハーです。

レオニード・ユスーポフ候。

ロシア帝国ロマノフ王朝、最後の皇帝、ニコラス2世に仕えた陸軍軍人で侯爵家の若き当主。

これだけでもうすでにつぼなんですが、この人、かっこいい上にめっちゃ、馬鹿だった・・・。

その馬鹿さ加減が本当につぼだった・・・。

有能なんですよ。すっごい軍人として秀でてるの。

でも、頭がいいの。すごい状況みてるの。

軍人としてロシア帝国に、ロマノフ王朝に、ニコラス2世に仕えてるんだけど貴族社会が腐ってる事ももうロシア帝国が斜陽の真っただ中にある事も冷静にみてるの。

で、その中でただただ盲目にニコラス2世につかえてるわけでもないの。

さいごのさいごまでこの時代の中でロマノフ王朝が残っていくためにはどうしたらいいのかというのを歯を食いしばって模索して行動に移し続ける。

理想だけに凝り固まってるわけでもない、時代が変わり目だという事もちゃんと理解してる。

理想だけが高くて色々あっけらかんと手放してしまうというのでもないの。

そういう意味ではちゃんとしぶといの。

自分の出来る事は全部やるし、絶えるし、泥も被るの。

そういうふてぶてしい所も大好きなの。

でもさいごはやっぱり、どうにもならなくなっても「ニコラス2世を守る軍人」として火のような塊の人だったりする。

・・・こう、馬鹿でしょ、本当に馬鹿。

色々、判ったうえで冷静に自分にできうる限りの最善手を打って、打ちどまりになって引き返せない所に来ても絶望するでなく自分の情熱を全うしようとする。

情熱も胆力も行動力も洞察力も兼ね揃えている。

青い炎が一番、あついんよ・・・・(涙)

もう多分この人の人生、ある意味幸せなのよ・・・ファンとしてはこう「穏やかな幸せを。」とか思うんだけど、そういうの幸せじゃないんだよ、この人。

・・・でもつらい。死んじゃいや。

もう、それはもうユスーポフ候じゃないとか判っててもあんな苛烈な幸せじゃなくて柔らかい幸せに包まれてほしかった・・・

・・・いや、何がそれなのか本当に想像がつかないんだけどさ、そんなの。

 

あと、あんなにあからさまなのに女性への恋心に対する気づきが、自覚がないとかな・・・

あと、ライバルと対等でいたいからって恋敵をこっそり何度も助けちゃうとかな・・・

なんでそんなところだけ真っすぐ純真で子供なん・・・

ユリウスだって転びかけてんだからどんな手を使っても落としちゃえばよかったのに・・・(それはユスーポフ候ではない・・・)

 

ユスーポフ家ですが、侯爵のレオニード、その妹のヴィーラ、そして弟のリュドミールが皆さん、素敵です。

いや、特に兄と妹である、レオニードとヴィーラが。レオニードとか呼び捨てにするのが心もとないのでユスーポフ候とヴィーラと言いますが、この兄妹の関係が見事すぎる。

二人とも強くもあり、弱くもあり、脆くもあり、でもやっぱり強い。

そして二人とも頭がいい上に潔い。潔さすぎる・・・。

でもさぁ、ちゃんと情熱もあるんよ・・・お人形さんじゃないの・・・

あんなに勘が良くて頭がいいと幸せになれないんよ・・・(いや、二人とも十分幸せなんだけど・・・)

もう、なに、この二律背反な感じ・・(いや、なんか違うんだけどこうなのみたいな・・・)

ヴィーラは女性で基礎体力が高いから生き残るけど、ユスーポフ候は男性だからそうはいかないんだよ・・・(うわーーん。)

 

なに、もう、大好き・・・(色々ドッカンし過ぎて頭はすでにいっちゃてるもよう)

こうね、この兄妹の関わりというかお互いがお互いを理解して大切にしてる様が本当に美しくてね。

そいで、ヴィーラがある意味での「男たちの美学」のずるさをぐっさり見抜いてる所とかな・・・そしてたぶん、そのずるさと愚かしさをユスーポフ候はちゃんとわかっている。

わかっているんだけどその道を進むしかないのよ。

・・・そうよ、そういうユスーポフ候だから自分も転んだんだよ。

だけどつらいじゃん。こう心許しあった人たちと柔らかい幸せにも包まれてほしかったじゃん。(←本当にそうなったら真綿で首を絞められるかんじかもしれないけど・・)

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そういう意味ではリュドミール君がヴィーラに救いをもらたしたのは嬉しかった。

ヴィーラが「報われた」と思える瞬間があってよかった。

嬉しい。

それがヴィーラの色々を溶かして彼女が幸せになれるといいのに・・・(祈願)

 

あと初見はユスーポフ候の部下のセイゲル大尉がユスーポフ候の事大好き過ぎるだろうと思ったんだけど(そしてそれは読み込むたびに確信に変わるんだけど)再読するごとユスーポフ候もセイゲル大尉の事大好き過ぎるだろうと気づかせてくれる。

 

・・・うわぁー!!って感じだったりする。

 

いやね、ユスーポフ候、恋をするユリウスの事、軍人として守るべき対象としてのニコラス2世とロマノフ家、情熱的に大切なのよ。

そしてそこもすっごくなんかいいの。

でもね、セイゲル大尉の事はもう空気なの。ひとつの命を分け合っちゃってるの。

信頼とか信用とか色々超えちゃってるの。もう疑うとかそういう必要ないの。

それは情熱じゃないの。こう、もう動かしがたい現実なの。

で、自分ではない他者を自分の中のカテゴリーでそう決まっちゃうことが相手に対してある意味失礼な事も重々承知してるの。

自分の我儘っぷりをすごいわきまえてるの。

でもその人にある意味甘えてるもんだからそれを吐露しちゃうの・・・

もう、つぼるしかないでしょ・・・

(いや、怒られるかもしれんが(誰にだ)

本当になんかそういう馬鹿さ加減が可愛らしいというか愛らしいというかな・・・)

 

セイゲル君の方は一つの命を分け合っちゃってるんだけどもうこっちは情熱的よね。(←私見)

ひとつの命をわけあっちゃってるっていうか、セイゲル君にとってユスーポフ候が命なのね。セイゲル君の。

まぁ、ある意味盲目的なんだけど、こういうの好きだな。

いや、だからちょっとすれ違うんだよ。なんか微妙にすれ違うの。

でもひとつの命を分け合っちゃってるのも間違えないの・・・

だからすごい切ない部分もあるの・・・。

 

この二人をみててもオルフェウスの窓の終盤でダーヴィットの独白ともとれる

「人間と人間のふれあいというものは・・・

で始まる文章はぐっとくるものがある。

もう、登場人物みんなうまくいかなかったり、不器用だったり、小器用な自分に傷ついたり、卑怯だったり、絶望したりする。

でも人と関わったり、愛したり、感動したり、心を傾ける事をやめる事も出来ない。

なんかみんな自分の生を生き切ってるんだよね・・・。

 

もうさ、正直、ユスーポフ候がいっちゃうと一瞬もう読まなくてもいいやって気にもなるんだけどどうしても最後まで読んじゃうのはバルバラ姉さまとダーヴィットの幸せが待ってるからだよね。

「素晴らしい青春を篭絡しに。」

もう、なにこれって感じで素晴らしい。

やっぱり人生って生きるに値するんだよ。

何かに心を傾けるってそれだけの価値があるんだよ。

 

辛くても苦しくても、よしんば傍から見たら無意味にみえても。

だからさいごまで読むとユスーポフ候がちゃんと幸せだったことは判るの。

納得も出来るの。

だけど、こうお話とかぶち壊しでも、人生ぶち壊しでも、

安直に幸せに見える顛末をみたかったよーとかも思わせてしまうあたりこの作品凄いっす。

てか、多分、ファンの声はそういうのいっぱいあったと思うんだ。

ユリウスとミハイロフの二人なんか特に。

でもそれをやったらその人たちはもっと違う意味で致命的に死んじゃったと思うんだ。

でもそうならなかった池田理代子さんの「オルフェウスの窓」に注いだ愛情と情熱は半端なかったんだろうなと思うと遅くなったけどこの作品に出会えてよかったと心から思うな。

 

でもなんかオフでのんびりしたユスーポフ候とか見たいよね。

音楽とか聴いてお茶とか飲んじゃうの・・・

セルゲイ君もそこに当たり前のようにいたりするの・・・

いいよね、つかの間の休息って。

・・・こうやって妄想はたくましく育っていくのだった。

 

知らないとは言えユリウスとミハイロフをシャールとディーンに間違えたのは大変失礼だったけど、自分的には大ラッキーだった。

そして麗しかった。

・・・・ユスーポフ候はもっと美しかったけど!!!

 

あと、ロシア文学とドイツ文学を色々読み返したくなった。

クラシックも色々かけながら「オルフェウスの窓」を読むのは楽しい。

皇帝は勿論、ピアノ協奏曲は作品にあうね。

彼らの休息には「ショパン」とか透明な感じがいいかも。

 

もう一度いうけど未読の人は「オルフェウスの窓」よむといいよ。

三原順の事 まずはDDの事など。

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ツイッター三原順の事をつぶやこうとしたらどうにもおさまらないので久方ぶりにブログを開いてみました。

レビューとかではないので読んでない人はわけわからん内容になると思うけど申し訳ないです。

 

三原順は大好きで自分にとって大切な作家です。

物凄く面白い・・・がものすごく難しい。

上の「XDay」にしてもカウンセリングの扱いとかちょっとなと思う所もある。

大体、三原順の生み出した作品というのは「大賛成」とか言うと

「お前、そんなこと言って大丈夫か??」と後ろからガツンと殴られるような怖さに満ち満ちている。

なんというか自分の駄目な所やずるい所、汚い所を目の前に並べられるような部分もある。

どうしてそんな作品群を読み続けているのかと言われると一言でいうと難しいし、色々あるんだけど一つには「DD」というキャラクターに出会ってしまったからというのがある。

「DD」というのは「ダドリー」と言って「XDsy」や「Sond」「ムーン・ライティング」の主人公です。

「XDsy」や「Sond」「ムーン・ライティング」のDDはちょっと別次元の人物なんだが体験的な部分で重なっているはずで、彼は幼い時に産みの母に殺されかけています。

この体験は自分に重なる部分なんだけど、重なるだけに彼の作品でのDDの考える事、行動は個人的に自分の事のように迫ってくる部分があります。

例えば「Sons」で親友のトマスが祖父を亡くした夜一緒に過ごすというシーンがあるのだがDDは彼とオセロをしながら、まるで普段通りにオセロをしながら機械的に涙を流し続けるトマスにたいして

「トマスは笑う 笑い乍ら涙を流し続ける そしてオレは祈り続ける

 どうか泣き叫びださないでいてくれ

 どうか喚き始めないでくれ

中略

 オレは怖いんだ。

 爆発した感情を受け止めてやる役など

 オレは苦手なんだ

中略

 オレはもう

 あんなものは受け止めたくない

後略」

と心の中で思う。というか、切実に祈り続ける。

トマスに対して同情心なりかわいそうという気持ちがないわけではないけれどそれ以上に自分の事がきになってしまう。

これを読んで冷たい、ひどいという人もいるかもしれない。

ただ、自分は実感として「こうなるだろうなぁ。」と思ってしまう。

こう体験が傷になってまっとうではいられなくなる現実が痛いほど出ている。

「Sons」ではDDがその「傷」によってできた欠陥にあちこちで向き合う事になります。

どこまでいっても自分だけが大事な自分を苦々しく思うシーンもあります。

DDの話は「Sons」も「XDay」も解離性障害、とくに解離性健忘、解離性の離人感については物凄くきちんと描きこまれている。

・・・三原順が作品を発表したころにはまだ一般的な話ではなかっただろうに、作家ってすごいなぁと思います。

「Sons」にしても「Xday」にしても話の中で色々なエピソードやメインのエピソードはあり終わるのだが、何か問題が解決するわけではありません。

というか問題をはらんだまま(ひどい時は新たな問題を)今日もまたすぎ、明日がやって来るのをとどめる術はない。

ただその中で「Sons」のDDは

あれは自分が生きたいとおもったが故の事毎の埋葬だった。

だからあの頃の自分がやってきたら「ようこそ」と言おう。」(大意)

と彼にしては腹をくくる。

そして「XDay」のDDは写真に上げたように

「やはりボク達は負け続けてしまうのです

 そしてボクはすっかりいい気分になってしまい・・・

 やはり飢えながらけれどすっかり幸福な人間になってしまったのです。」

そういう瞬間瞬間を確かに彼は体験する。

「飢えながらでも幸福でいい。」というのは

なんというかとても自分を安心させました。

解決しない問題もあるし、過去も変えられない。

取り戻せないものもあるし、決定的に手にない物もある。

それでもなお幸せでいい。という。

まぁ、自分勝手な解釈ですが自分はそう思う事で腹を括れて前に進めた部分があります。

 

三原順は人の汚い所、どうしようもない所もいやがおうに見せつけるのですが

こう、人の図太い、しぶとい、生き抜く力も描いていると自分は感じます。

汚い所やずるい所に目を背けずにその上で人のしぶとい所を描き出す部分に

尊敬を感じるというかそういう部分が美しいなぁと思います。

もっとみんな三原順をよむといいと思います。

 

あと、三原さんはとても音楽を感じる。

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アンジーなんかはシャンソンカンツォーネを。

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タンゴを

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ジャズを。

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ポップスを。

 

彼女の物語としては硬質な作品群を彼女の絵か感じさせる音楽が柔らかく空気のように物語を支える。

そういう空気感も大好きなのです。