高野圭吾さんの事

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高野圭吾さんの事を考えていたら以前HPを作ってた頃に一時かいてた圭吾さんのライブの自分の備忘録を読みたくなって探してきた。

探すの大変だったんで、自分の覚えの為にブログに再投稿しておく。

・・・中2病全開で恥ずかしいけどね。ここに書いてある事相変わらず思ってる痛いやつだけどね。

今も私に圭吾さんがもたらす世界は相変わらず混沌だった。

「答え」みたいなのは出る日は来ないかもしれない。

それでいいのかもしれない。

 

平成13年5月3日
11区の第1木曜日に高野圭吾さんのライブがあります。圭吾さんのことを何一つ知らない自分がはじめてライブに行けたのはやはり11区のマスターの柳瀬るかさんのおかげでしょう。

 基本的に一人で切り盛りしているバーの空気はやはりマスターの雰囲気、であり人柄だと思います。
 11区の事をバーと言ってしまっては少し違うかもしれないですが、店の雰囲気については同じ事が言えると思います。もちろんステージ中は歌い手さんであったり、演奏をしてみえる方の世界が広がりますけどね。
 で、11区という空間は本当に居心地がいいんですよ。本当に安心できて楽しい。心がほっこりしてくる。何度も11区に通う内にそれは、るかさんの持ってるものなんだなぁ、というのが徐々に自分の中で明確になっていきました。そうなると本当は通いたくなるのが必然。
 でも、でも、通うのにはちょーっと遠すぎるので仕方なく東京に出向くならば「ライブを聴きたい」でもなく「お酒を飲みたい」でもなく「るかさんに会いたい」から11区に行こうとなる。
 5月に仕事と見たい舞台の関係で東京に行く事になった自分は迷わず11区へ行く事をスケジュールに挟み込みましたね。


 で、この辺りも運命だなぁ。と思うのですが11区のサイトのスケジュールを見ていける日の出演者の方を見ていて圭吾さんの写真を見てその日に決めたのでした。写真がなかったら行かなかったかもしれない、日にちが合わなかったら行けなかった。本当にタイミングですね。
 そして、運命の5月3日。どうしたのとるかさんにびっくりされながら「るかさんに会いに来たの」といいつつライブの始まりを待ちました。
 始まった途端。
 …どこかにさらわれてしまいました。
 圭吾さんの歌は私にとっては1曲、1曲がひとつの物語のようでライブは短編小説の集まりのようです。そう、つまり1曲、1曲全然違う世界へさらわれていくんです。
 ものすごい嵐のような体験です。くらくらとめまいがしてくるのに絶対に目が離せないんです。
 圭吾さんの歌を誰かにたとえるというのはやっぱり全然思いつかないんですが、種類としては「ロルカのうた」の世界のようかもしれません。一つ一つの歌がひとつの世界で、何もかもがある。そのひとつの世界に生きた力があるみたいな所がかな。
 ステージとステージの間、自分はもう全然帰ってこれなくてそれこそまともな受け答えひとつできなくなっているような気がします。
 圭吾さんの曲を聴くとなぜだか泣いてしまいます。哀しい曲でなくてもです。哀しくてでもなくうれしくてでもなく、かわいそうでという訳でもありません。自分が何を感じているのかよくわからないのです。圭吾さんの歌は私にとっては自分自身が知らない自分の感情をひきだしてくれるものでもあるみたいです。
 今のところそれは自分にとって大きなひとつの謎です。謎解きができる時また自分の前に知らない世界が広がるのかもしれません。

 

平成13年6月7日
 6月7日木曜日、11区での圭吾さんのライブ体験、2回目です。
 仕事を無理やり終わらせて強行突破の遠征です。これがいつもだったらさぞかし仕事が早いだろうとわれながら感心してしまいます。無理やりなスケジュールの中仕事をしつつも圭吾さんや11区のことを思うと自然に顔にしまりがなくなっていく自分。
 周りの人間はさぞかし不気味な思いをした事でしょう。でも、にへらっとゆるんでいく自分を止められないんだもんなぁ。
 新幹線に乗って東京に向かう。「本当に贅沢な事してるよなぁ」と思いつつも「これがあるからがんばって仕事をしてるんだい」と自分で自分に言い訳してました。なんにせよ、落ち着かない。新幹線に乗ってると言う事は何らかのトラブルで新幹線が止まらない限りライブに行けるという事なのでもうすっかり足は地につきません。
 11区についた途端、るかさんに「どうしちゃったの」と言われました。そうですよね、三河の人間(しかも社会人)が平日に東京の新宿にいるんですから。しかも当日の2時、3時まで決定でないので行きますと事前にも言えない。「どうしても、きたくてきちゃったんです。」と答える。びっくりの分だけ喜んでもらえてとてもうれしい。
 圭吾さんもカウンターに。それだけでへらへらしてしまう自分。生きててよかったよなぁ。
 本当は前回の、自分にとっての初めてのライブがあまりに鮮烈だったのであれは夢だったんじゃないんだろうか、とかあのショックは思い込みだったんじゃないんだろうかと多少、前の日までは不安になったりしました。
 が、始まってみるとそんな思いは本当に馬鹿な与太話でした。先回のライブの後、いろいろと調べてみたんですが自分で調べられた範囲では今現在で手に入る圭吾さんのCDやレコードはありません。
 とても久しぶりにライブに、その場所に行かなければ歌を聴けないという環境です。ある意味、残念な事ではあるんですが(CDがあればもちろん速攻でほしいもん。)もう一方でとても贅沢なことだと言う事を思い出させてもらいました。
 CDなどで聴けてもライブはやはり別物で楽しいんですが、やはりここでしか聴けないというものとは違ってきてしまいます。余計なものの入り込まない贅沢。自分がどうしても圭吾さんの歌が聴きたいんだと言う事がはっきりと自分で認識できる幸せ。
 で、やっぱり、ライブが一番最高だと思うんです。やはりあちらこちらにさらわれる自分。なんて心地のよい遭難なんでしょう。曲の最初にがつんと来るものがある。あれはなんなのでしょう。
 圭吾さんに「リクエストはありますか」と言っていただいたのに、シャンソンをほとんど知らず、ステージで圭吾さんが歌っている曲名すら知らない自分にはリクエストもできずちょっと、寂しかったです。でも圭吾さんだったらどの曲でも幸せなのでそう言った意味では残念な思いはせずにすみました。でもそのうちリクエストができるようになったらうれしいな。先日、教えてもらって覚えたタイトルでこれは大好きという歌は「ウイスキィーが水に」「アコルディオン」「サンフランシスコの六枚の枯葉」でした。ざくざくと好きな曲のタイトルを頭に入れていきたいです。


  この日は11区から新宿まで一緒に帰ってくれる方がいたり(ものすごい方向音痴なんです。)泊めてくれる人がいたりとありがとうを言いたい事が多かったです。もちろん11区や圭吾さんにもありがとうで
す。
 このところ幸せな事がとても多い自分です。

 

平成13年7月5日
 11区は遠かった.…いえ、愛知県から東京はもう、遠いと感じません。新宿駅から新宿3丁目の11区が遠かった。2時間近くさまよってしまいました。
 最後の手段はタクシーしかないか!!と思ったよ。歩くのは大好きなんですが、このままではライブに間に合わなくなってしまう。と最後の方は半泣きでした。時間前につけてよかったです.るかさんにも「なんで電話しないの」と言われてしまいました。電話…そういえば持ってたのよね、携帯電話.相変わらず電話を使いこなせない自分です.
 でも、いいんです。圭吾さんのライブに間に合ったならオールオッケイ。ちょっとしたお楽しみです.
 ピアノの加藤るり子さんも素敵です.話してるときはとてもかわいい人なんですが、ピアノは乾いた香りがします.シンプルで力強い感じ。土の香り、しっかりと根をおろした樹木の空気。街の息吹。とにかくかっこいいです。「群集」のピアノが本当に素敵だった。自分はトミー・フラナガンルービンシュタインなど
結構華やかな派手なピアノが大好きなんですが、違った意味でいいな、と思いました.
 そして、圭吾さん。このページは、「樹の音 街の音」とつけたんですが、どうしてかというと私にとって圭吾さんの歌がそうだからです。
 もちろん歌なんだけど、もっと直接に樹の音、街の音、風の音、水の音、悲しみの音、喜びの音。表面を突き抜けて直接、核心の部分が溢れ出す感じ。 街の言葉 樹の言葉…といってもいいかもしれない
です.この日の圭吾さんはなんだかやさしくて、静かな厳しさや切なさが多かったような気がします.「アコルデオン」もそうだったし、「幽霊」も。タイトルは判らないんだけど、歌詞の途中で「…バラは咲かない…」てはいるのや、あと、本当にやさしく切なかったのが、これも歌詞の途中で「果たされない約束がたく
さんしまいこんである.といった意味が入っていたもの(歌詞すらうろ覚え…)
 幽霊のね、「ふるい傷(いたみ、だったかなぁ。)のように」っていう(多分)くだりがあって、とても切なかった.
 不思議な感じですね.やっぱり大好きだなぁ.
 最後のアンコールの曲がめちゃ、チャーミングでかわいかった。(タイトルも歌詞もわからないあたり、
何のレポートにもなってないが。)このためだけに東京へ行く.全然OKですね.

 最後に、ちょっと、私信になってしまいますが、帰りは新宿新南口まで11区の方に送ってもいました.
ありがとうございます.(いつもごめんね。)


 
 

平成13年7月29日
 来週はやっと圭吾さんのライブの日がやってくる。8月2日ね。
公私共にちょっとばたついているのでライブは少し控えるしかあるまいと思っているが圭吾さんだけは別。一ヶ月の空白時間だって長いのに、そんな優等生なこと言ってられるか。
 このHPは一緒に仕事をしている人たちにも目一杯、宣伝してるのが言ってしまう。月の第一木曜日は
半日で帰る。まぁ、みんなにはとうに言ってる事だけどね。
 一ヶ月の間、歌、声としては圭吾さんに触れられないのでよく圭吾さんの事を考える。夜の空の色や、道場で一人でいるときのシンとした空気の中で思う。楽しいよ、そういうの。
 掲示板に書き込んでくれてる人が言っているように圭吾さんは「詩人」「孤高の詩人」がぴったりくる。わたしもロルカを連想したし。
 でも、書き込みの「孤高の詩人」をみて思い出したのが、山之口獏。獏さん。獏さんのありかたも圭吾
さんのあり方と通ずるものがあるような気がする。
 獏さんは私が詩人としては世界で一番大好きな人。小学校の時に転んで今では大好きな詩人も何人かいるが獏さんはやっぱり別格で輝いている人。
 ふるさとが沖縄で、それをとても愛していて、愛らしくて、しなやかでしたたかな力強さがあって、シンプルなことの美しさと怖さ、ありとあらゆるものがつまった獏さんの詩。
 圭吾さんも自分にとってはそう。この辺りに自分の好きなものの共通項があるような気がする。

 獏さんの詩を読んだ後、圭吾さんの歌の言葉を感じる。
 圭吾さんの歌を聞いた後、獏さんが踊った琉球舞踊を思い描けるだろうか。歌が、音楽が、指笛が。
 
 似てる、と言うのは誉め言葉ではないかもしれないけど、こう亜流だと言う事でなく同質の匂いを感じると言う事。
 一番共通項として思うのは、あんなに厳しくすべてを見抜いているよなのに、なおかつすべてをいとおしんでるあの力強さが大好き。
 はやく、2日にならないかなぁ。 

 

平成13年8月2日
 「そうはなれないけど、乞食であるか王様でありたい」
 近い言葉でそう、圭吾さんが熱く語った。めずらしい言葉ではないのだけど、物凄く真意が伝わりにくい言葉のひとつのように思う。
 もちろん自分も自分の感じるままにしかその意味を探れないんだけど、圭吾さんの歌の記憶をたよりにいろいろと考えた。
 「乞食であるか」の部分は「貧乏であるから厳しい素晴らしい作品が出来る」というよな考え方も時々見かけるが、絶対にそうではないと思う。
 お金はあったほうがいいし。お金が手に入るようになってその人の作品の世界が壊れるならそれは全然駄目なような気がする。
 先回、このページに書いた獏さんは詩をひとつ作るのに何年もかけるような人だったのでいつも生活は火の車だったんだが、奥さんが生活の事について聞かれたときに「苦しかったけど、すさんではいませんでした。なにしろ私達には詩がありましたから。」ちょっと違ってるかもしれないですがそう表現して
た事があります。とてつもない強さと健やかさと確かさが伝わる。
 「乞食であるか」というのは「乞食であっても」そういったものが歌や言葉によって持ってられるだろうかという自分に対しての厳しい問いかけに聞こえた。
 「王様でありたい」の方が自分には難しいかな。まさに自分にとっては圭吾さんて王様のようだから。
「ありたい」という問いかけが難しい。
 それも先に書いた「乞食である」の問いかけに通ずるものもあるけど、それだけじゃないような気がする。

 私にとっては圭吾さんの歌は非常にシンプルで直接響くものがある。
 「夢」を歌ってもこうあいまいなものでなく、「夢をみる事」での悲しみや切なさや喜びがはっきりとそこにあるように思う。子供達や大人や女を歌ってもたとえば今日のパンをどうしようと途方にくれる生活の美化されたものでない、そのままの苦しみや、それでも生きていく命の強さが手に取れるような気がする。どう表現しても違うような気もするが「朴訥とした」と表してもいいような判りやすさや深さを感じる。
 それが乞食でも王様でも風でも幽霊でも…全てであるような気がする。
 うーん、どう書いても自分が思ってる事と違ってるような気もするなぁ。言葉って難しいなぁ。

 そういえば、自分、小さいころは図書館で本を読むことが本当に多かったんだが、気に入った海外の作品だと訳者が違うと比べて読むと事がよくあった。でも、そういう習慣があってよかった。
 圭吾さんとやっぱり訳者で物凄く作品て違ってくるよね。と話せたから。
 この辺り、ただただミーハー丸出しだった。

 来月をもう指折り数えてしまう自分だった。 

 

 

 
 
平成13年9月6日
 体調的には絶不調だった。
 ここの所、あまりに楽しい事が続き、上調子。しかも今週に入ってから貘さんの詩集はやってくる。圭吾さんのライブはもうすぐで、週の頭に夏バテであんまり食欲ないなぁ、と思っていた事をすっかり忘れ水曜日に楽しく焼肉でお酒を飲んで調子に乗って飲んでしまったのだった。
 当日はよかった。気持ちよく酔っ払い。しかも明日は圭吾さんのライブ。もう、この世の春って感じではしゃぎまくり。すっかり自分の体調を忘れ、レバ刺は食べる。ゆっけは食べる。…ただでさえ胃腸が弱いくせに。…ただでさえこのところちゃんと食べれてなかったくせに。しかも何を思ったかその日は焼酎で通す始末。
 ライブ当日の朝。5時に気持ちが悪くて目がさめた。正直、別の人のライブだったらチケットをとってても行かなかった。きっと会社にも行かなかった。
 もう、新幹線に乗ってても気持ち悪くて気分は浮ついてるのに、頭はふらふらする。もう、すでに何がなんだか判らない状態で東京へ向かった。
 11区でも最初はさすがに水をもらった。だって、圭吾さんのライブの途中で気持ち悪くなったら悲しいんで。
 だから最初のステージは本当の本当にお酒の入ってない状態で聴いた。よく考えたら初めて。圭吾さんの歌で感情が大きくふれるのがお酒が入っての事とやはりまったく関係ないことを確認できてしまった。

やっぱりちょっと泣いてしまった。悲しい曲で泣いてしまう訳じゃないんだけどね。最初のステージが終わった時にるかさんが「今日は静かじゃない。」と言っていたが、圭吾さんのステージは後はしばらくいつも静かだと思う。茫然自失。なんだか帰ってこれない感じがする。
 それがどこからかが自分でもよくわからないんだけどね。
 で、気持ち悪いのもどっかに飛んでいってしまった。のどもと過ぎればなんとやらでそこからはボトルを出してもらってバーボンを飲んだ。ジャックダニエルってやっぱり美味しい。

 今回は「ウイスキィが水に」があった。やっぱりこの曲、大好き。でも、以前聞いたのとは全然雰囲気が違っていた。
 とても緩やかに流れるように力強くて。くらくらした。バーボンを飲みながら(聴いているときは飲んでる余裕なんてないんで正確に言うと少し違うが)生でこれが聴けると言うのは本当に贅沢だと思う。
 なんだか、3つのステージとも嵐のように終わってしまう。物凄く濃密な世界。麦秋のことを歌った歌で
「いつもこんなに素晴らしい日々がいつも続くと思ってはいけない」といったようなくだりがあってドキドキしてしまった。
 …だって、自分 日々楽しいもんなぁ。本当に。
 「幽霊」も「バラ通り」も「サンフランシスコの6枚の枯葉」も聞くたびにもっと大好きと思ってしまう。いつもこれ以上ないくらいまでに大好きなのにちゃんと先があるのが圭吾さんの凄いところだなと思う。

 ライブの曲の中で(先回もあったな、たしか)遠く離れてしまった恋人の事を地図を広げたりして想う歌の中に 「地球(世界だったかなぁ)が広いなんて誰がいったんだろう」 という所があって本当に同感。
 自分が何より切実に想うのは距離の前に時間だけどね。…来月が遠い。 
 でも、頻繁に聞けたらそれこそ自分が収拾つかなくなるかもしれない。

 とても自分にとっては力のあるライブ、歌だな。圭吾さんの歌に出会えて本当によかった。そう思えるものが増えていくのはやっぱり凄い事だと思う。
 別にいい子ぶるわけじゃないけど、自然にありがとうって気持ちになれるのが毎日楽しい理由かもしれない。

 

平成13年10月4日
 10月に入ってからどうも上手に寝付けなくて今年は中秋の名月から3日まで本当にたくさんお月見をしました。
 1日の月は本当にきれいだった。朝から夜まで大雨が降ってたんで正直今年の中秋の名月は諦めてたんですが、なんだか夜頭の奥のほうが妙にさえててちょっとお散歩と外に出たら、こうこうと惜しげもなく降る月や星のひかり。
 うしろにあの白い輝きの塊があって、手前に夜があって、月や星の形に切り取ったところからあふれ
てこぼれてるように鮮やか。
 足元がぐらぐらしてとても不思議でした。自分の中で説明できないような風景や何かに出会うと自分の感情がどうなってるのかよく判らなくて心細くて、怖くて、でも心地よくてくらくらします。素面だったはずなのに、お酒が入ってるみたい。

酔ってるは確かかもです。
 4日の圭吾さんのライブでの曲で これは、昼間の青空ですが、そんなあんまりに風景が鮮やかだと世界が違うみたいというくだりがありました。月明かりもあったかな。以前も聞いたことがあって大好きな曲なんですが、今回は特に夏の深い青空や、冬の夜空が目の前に浮かぶ様でした。あんまりきれい過ぎて怖い。かなしいっていうやつかな。曲もとても切ない曲です。自分と他者の曲。別れがあるっていうのはちゃんと出会ってるからなんだよな。そういう贅沢な痛み。
 でも、やっぱり痛みは痛みなんだよな、と思ってしまう。素敵な曲です。
 …しかし、曲を知らない人には何の事かさっぱりだろうし。知ってても…なにを言ってんだといった感じかも知れない。でも、自分は聞くたびになんだかよくわからないんだけど不思議な気持ちになるの。
 
 今回のライブ、るりこさんのピアノの後「ウィスキィが水に」からでした。やっぱり凄く大好きな曲。「弱いものが力を取り戻す」かな、そんなくだりもドキドキするし。いや、もうなにからなにまでいいんだけどね。
 そういい始めれば、圭吾さん、何から何までいいんだけどね。で終わってしまうんだが。それじゃ、こんなの書いてる意味がなくなってしまう。
 圭吾さんのうた。惜しげもなく降るものがあります。そこからあふれるものが。ちょっと呆然としてしまいますが心地いいです。きっと次に聞いたらもっと大好きになるんだろうなと思うと変な気分です。
 帰りの夜行バスの中、久しぶりに熟睡してしまいました。本当に本当に幸せな気持ちで。子守唄っていうのとはちょっと違うんだけどね。
 …でもちょっとはそういう効果もあったんだろうか。圭吾さんのライブは嵐のように過ぎ去るから気づいてないだけかもしれない。今月はちょと無理をしたけどやっぱり行ってよかった。いろいろと上手に表現できないけど、これだけは間違いのない本当のことだな。
 

平成13年11月1日
 11月1日 20時。私、会社で端末に向かってたよ。
 …圭吾さんのライブがもうすぐ始まるであろう時間に。まぁ、そういう事もあるよね。当日の昼までは行くつもりだったんだけどさ。
 でも、行けなかった、というより行かなかったというべきなんだろうな。だって、仕事、自分が好きで楽しくてやってるんだもんなぁ。環境的にもとてもいいので本当に恵まれていると思う。(こんなに好き勝手やってて仕事があるという時点で恵まれているという噂もちらほら。)
 圭吾さんのライブももちろんまた行く。だって、大好きだから。しかも来月の11区でのライブは私の誕生日だし。
 やはり、やりたいことはやったもん勝ちだと思う。 

 
 
平成13年12月6日
 第一木曜日、11区での圭吾さんのライブの日。
 なんとか、都合をつけて(無理やりつけてもらって)会社を早くあがる。いいじゃん、誕生日なんだから。
 とても暖かくて気持ちのいい日でした。ライブも本当に素敵だった。圭吾さんの世界に出会えたのは本当に幸せです。
 自分が自分であることの幸せを確認させてくれます。出会うタイミングってあるんだろうけど、今が今で本当によかった。
 最後にるり子さんのピアノで圭吾さんやお店にいた皆さんにお誕生日の歌を歌ってお祝いをしてもらいました。…なんて贅沢だったんだろう。
 いろんな人に向けて「本当にありがとうございました。」
 ここまで生き延びてきて本当によかったよん。


 
 
平成13年11月21日
 日本語が自分の言葉で本当によかったと強く思うことがよくある。もう、ほとんど「神様、ありがとう」といった気分。
 中也や貘さんの詩。はるきさん(大阪の人がかなり羨ましくなるが)や寺山修司の物語に触れる瞬間。
 そして、圭吾さんの歌を聞くときもいつも思う。
 今回は会社の休みもうまく重なったので一日余分に休みを取って横浜のシャノアールという店に圭吾さんの歌を聞きにいった。「幽霊」とか「ウィスキィが水に」とか、子供の歌とかね。水の歌(あれは「ただの水」で曲名はいいのかなぁ)聞くたびに本当に大好きになっていく。「幽霊」なんて、いつもびっくりするくらい表情が沢山ある。
 うた、曲、詩、言葉。とにかく言葉に力がある。いきいきした不思議。いいなぁ。
 圭吾さんが、「やっぱり自分は日本語しかわからないから、日本語で歌いたい。」といってるのを聞いて、とても嬉しかった。
 いろいろな話の中や、あと歌を聞いていても 言葉を大切にしている事、伝える事への祈りがそこにあ
って、とても幸せだった。
 来週は、11区でのライブ。うれしいなぁ。

 

平成14年5月2日
「かんじる」と「わかる」というのは当然なんだろうけど全然違うものだ。
 「わかる」から「かんじる」訳でも「かんじる」からわかる訳でもない。
 自分の事を言えば小さいころから落語が好きだったが噺の内容が判るかと言われればほとんど判らないというのが正直なところだったと思う。(じゃぁ、今ちゃんと判るのかと言われると判らない部分も沢山あるのが情けないところだが。)判らなくても十分に楽しめた。噺家さんの手の動き。扇子の使い方。
噺の間のとりようでふと着物の襟元を正す様子や雰囲気にどきどきした。意味がわからなくても表情や声の調子で腹のそこから笑える位に楽しい噺も多かった。

 もちろん一つの作品を目の前にしたとき「わかる」というのは大きい。流れが判る。内容がわかる。意味がわかる。背景がわかる。意図がわかる。
 わかった気になっているだけの時もあるとは思うが、それでも「わかる」という気持ちよさはその作品を楽しむ大きな要素になる。ただ、その大きな要素が外れてもなおあふれるものが沢山あるというのはすごい。
 圭吾さんの歌にはそのすごさがあふれている。「かんじる」というのもかなり大雑把なくくりだ。腹にすとんと収まる。胸にがんがんくる。頭の後ろをがつんとしたショックがある。体中がじんわりやわらかくなるような気がする。ちょっと考えただけでいくらでも全然違うものが浮かぶ。

 気持ちがよかったり、気持ちが悪かったりすること。
 気持ちがいいだけでなく、おぼつかないような気持ちの悪さを感じさせ、その落ち着かなさを何度も確かめたくなるような気持ちにさせるものがある。
 誘惑するものがある。何度も確かめたいという気持ちを際立たせるものと同時に「知りたい」という気持ちをあおるものがある。
 圭吾さんの歌はライブでしか聴いたことがないので比べようはないがライブだからこそ強く感じられる事柄のような気がする。

 誘惑されるというのはライブでは必須条件だ。(少なくとも自分にとっては)どんなに完成度が高くても自分とチャンネルが合わなくて誘われるものがなければつまらないし、そこにいるのが苦痛でしかない。
だったらごろごろと寝てたほうが何百倍もいいような気がする。(だから、ライブでなく誘惑されるものが満ち溢れるものというのはそれこそすごいと思う。)
誘われれば自分の中で動くものがある。動けば変わっていくものが必ずある。
 変わり続けるものが、ある瞬間、唐突に自分の中で形になることがある。それは見えると表現できるような鮮やかさをもたらす。 変わり続けるものが、ある時、自分の中にまるでずっと昔からあったかのようにそこに確かな形として存在することがある。それはこれでよしと思えるような充足感をもたらす。
 両方とも「わかる」ということかもしれない。いつかどちらがやってくるのか、どちらともがやってくるのか、それとも全然知らないものがやってくるのか。そんな事も思いながら自分の中では混沌の中にある圭吾さんの歌を聴く。
 その、混沌の幸せを感じながら。

 


 
平成15年11月16日(1)
2003年11月16日 新橋シャミオール 
ピアノ 上条泉 ギター 佐藤風太
PETAX-TEA Chanson Live
高野圭吾 独唱会

初めて入る場所だったのでライブが始まるまではとても緊張しました。
小心者な自分は周りのお客さんがやけにかっこよく、垢抜けて見えてどうも自分が場違いなような気になっきたりします。
 自意識過剰だよなぁとも思うんですが、ドキドキして落ち着かないのは事実なんだよな。
 ま、そんな緊張もステージが始まってしまえばふっとんでしまうんですけどね。

 一曲、一曲がそれぞれに始まりがあって、終りがあるそれぞれの物語で、それぞれの空気があり、それぞれの息吹があり、それぞれの命が存在する。
 もう、最初のステージは嵐のように過ぎさって、呆然としてしまいました。とにかくかっこいいステージでした。
 最初のステージの最後の曲(相変わらず曲名が判らない自分ですが)
「連れていってよ はるか海の彼方へ そこにはこんなみじめさはないはず」「みんなが帰ってしまった後にも僕はひとりで波止場で海を見ている」と歌いあげる言葉にくらくらしました。
 もう、今は「連れて行ってよ」と思わない自分ですが、確かにそう思っている時期があった事をまざまざと目の前につきつけられるというのが一番近いかなぁ。
 あの頃の幼さや怒り、憤り、あの喉がひりひりと渇い感触。果たされなかった願望。少し間違ってるが故にどこまでも一方通行な憧れ。いじらしいまっすぐな思い。
 …どうもうまく言えないんだけどそういった今よりもさらに勝手で独りよがりだった頃の自分の感情を少し愛おしさと胸苦しさと一緒に掘り起こされる感じかなぁ。(駄目だ、何がいいたいのか自分でも判らなくなってきた。)
  「サントゥアンからクリニャンクールまで」もそういう複雑なざわざわした気持ちになる歌です。「おそらく幸せと言っていいのだろう。」という言葉なんかくらくらします。

相変わらず圭吾さんの歌は言葉は大きく揺さぶられるものがあるのに自分でもそれが何なのかが判然としません.不思議だなぁと思います。
だから、また聴きたくなるんだよな。

 2ステージは色っぽかったです。
 しっとりと、密度の濃い世界が展開される。
 
…自分の中でもう少し整理しておきたいので2ステージ目は別にします。

つまり次につづきます。

 

平成15年11月16日(2)
2003年11月16日 新橋シャミオール 
ピアノ 上条泉 ギター 佐藤風太
PETAX-TEA Chanson Live
高野圭吾 独唱会

ウイスキィが水に」で始まる第2部。
この曲で始まる圭吾さんのステージは何度が聴いていて、聴くたびに「あぁ、始まるんだ。」だと、胸がきゅーとなります。
 「雀のうた」(…いや、題名が違うかも)もいつ聴いても不思議だなぁ、とおもいます。よく聴いてると何も言ってないんだよな。だからこそそこに何もかもがある。という不思議。 
 
圭吾さんの歌は他の歌もそういう時があって、何かを語る、とか訴えるとか、伝えるものじゃない。
 どこかに確かにある空気や空間をぽんと切り取ってみせる。それがぶつかってくる訳でなくこちらがそれに魅せられる、近づきたくなる。引っ張られるのでない。伝わってくるでなくて、こちらから手を出したく
なる。そういうもどかしい気持ちになる事があります。

 ギターのある圭吾さんのライブは初めて聞いたんですが、とてもよかったです。「おいしい水」やたばこ
を歌った歌なんて本当にすごかった。本当に空気が濃かった。
 2部は本当に風太さんのギターがよかったです。とてもシンプルで心もとなくなる位に不安を誘うようなきれいな歌もありました。ギターも、本当にきれいでドキドキした。(きれいなんだけどね、嘘がなくて、薄っぺらくなくてくらくらする。)

 そして、上条さんのピアノのすばらしい事。くるくると表情が変わっていく。かっこよかったり、かわいかったり、とても愛嬌があったり。矢車菊の歌のピアノは無邪気でやさしくて、かわいくて。1部の最後の曲や「幽霊」ではどこまでもかっこよくて、1部の「ムッシュ ウィリアム」(で、いいのか不安だ)ではなんだか妙に楽しそうで(ちょっと意地悪く。)、どの曲も何かがあふれんばかりなのに、それでいて余分な事がひ
とつもない。
 例えばかっこいいと一言で言ってしまうとひとくくりの様だけど、「幽霊」と1部の最後の曲と「美味しい水」ではそのかっこよさが全然違う種類のものです。

 圭吾さんも風太さんも上条さんも余分なところがなくてとてもシンプルで力強かった。2部は特にそれを感じたステージでした。とてもしたたかな息遣い、確かなものを感じました。そのしたたかさがとても色っぽかった。

1部はとても華やかでドキドキしました。清清しいそして甘酸っぱいものを秘めたものがありました。1部
と2部ががらりと違う魅力というのも今回すごいところだったと思います。