私はスクリーンで観ないでかかれた文章を映画批評とは思わない。
最初に結論から言ってしまうと、私自身はスクリーンで観ないでかかれた文章を映画批評とは思いません。
・・・何故こういう事を唐突に言い出したかというとツイッターで内田樹先生が
朝一で是枝監督の新作『万引き家族』のパンフレット用原稿3200字。すでに3500字書いたけれど、まだ言い足りない。あまりに「取り付く島」の多い映画なのです。このところ映画のコメント仕事が多いですね。全部DVD観ですけど。次は『孤狼の血』。映画館に行く暇のない映画評論家って。
— 内田樹 (@levinassien) 2018年4月30日
とつぶやいてらっしゃったからです。
ツイッターでこういうこと言ってる人がいるけどそれは違うんじゃないかなーって程度の事をツイッターで自分もつぶやいてお茶を濁そうかと思ったんだけど一晩考えても何故か違和感だらけでちょっとブログで自分がどうしてこんなに引っかかってるか書いてみたくなりました。
前提として自分は淀川長治先生を幼少のころポプラ社から発行されていた「僕の教科書は映画だった。」から心酔して映画に対する色々な考え方は自分で考えたり身につけたりというよりまんま淀川先生の影響です。だからオリジナルな考えは一つもない事をまず表明しておきます。
スクリーンで観ていない映画について文章を書くことを否定しません。というかそれはありだと思っています。プロでもアマでもです。ただスクリーンで観ていない映画について文章を書く場合、それは評論とはなりえないと思います。
映画はスクリーンで観るように作られています。自分も映画体験はテレビから始まったのでかなりの数の映画はテレビで観ています。そしてその後リバイバルなどでスクリーンで観たものもあります。
その体験に上下はありません。テレビで観たから下でスクリーンで観たから偉いという事は全然ないです。
自分も「カリオストロの城」は最初レコードでした。自分にとってはカリ城は長い間何十回と市の視聴覚センターで聴いた音が全てで凄く楽しんだしいつもわくわくしました。のちにテレビやリバイバルでスクリーンで観ましたが体験に音だけのカリ城が色あせる事は全くありませんでした。
ただ、テレビで観る作品とスクリーンで観る作品は全くの別物です。大抵の場合、映画はスクリーンで観るために作られていて、光や影、映像、音といった部分でテレビでは伝えきれないものが沢山あります。その部分はテレビで観ても決して判りません。
映画についてのコラム、監督についてや物語など一部についてはテレビだけの視聴でも語る事はできると思います。でもそれは決して「映画の評論」ではないと信じます。
自分は既に活動を停止されているブログのm@stervisionさんの映画の評価サイト
m @ s t e r v i s i o n | principle and policy with profile
にあるように「 映画館、スクリーン以外で流れるものはやはりモニターに表示されるのは映画に似たなにかでしかない。」(ちょっと端折ってます。)
に同意します。
ただ、これはテレビなどで観る事が価値が下だという事ではないです。
でも明らかに違うんですよ、映画館で観ないと受け取れないものがあって「映画」として作っている以上それは作品の「肝」だと信じるのです。
だから監督自身が喜んでいるコメントが付いているので本当に余計なお世話なんですが、映画館で売られるパンフレットに乗せる文章がDVDで書かれていてそれをかく人を「映画評論家」とそこにかかれたものを「評論」と呼んでしまう事に、違和感を、もっと言ってしまうと怒りを感じてしまうんです。
それは劇場に足を運んでパンフレットを購入する客に失礼過ぎやしないかと。(本当は映画を作っている人たちにも失礼だと思うんだけど・・・)
依頼があるから仕方ないじゃないか、そこに需要があるんだからという向きもあるかもしれないけど、映画館まで足を運べないなら依頼を受けなきゃいいのにって思ってしまいます。文章の最後を観るとご本人もそこに違和感を感じているみたいですし。
なんというか自分、小学校の3.4年生の頃から淀川先生を追っかけてたんで公平には観てないです。内田先生ももう20年くらい書籍など読ませていただいて勉強になる事も多いですが、どっちに肩入れしてるかといえば淀川先生です。
全然公平じゃないです。
ご本人にお会いしたことはありませんが、淀川先生は全身全霊で映画を愛してらっしゃいました。テレビの洋画劇場のコメントはスクリーンで観たことが当然あるけどすべてテレビで視聴してから解説をされていたというエピソードは有名です。
試写会で業界関係者がいいかげんだったり、態度が変だったり、おざなりに映画を観ると厳しく叱ったというエピソードも色々と他の人達から伺ったり読んだりしいます。
淀川先生は凄く好き嫌いがはっきりしてらっしゃってお嫌いな映画はけちょんけちょんに語るし、言葉も結構ずばずば怖いです。
でも映画に対する愛情は深い方で、映画評論、批評、広告もいいかげんな態度で臨むことは自分も周りにも許さなかったと思います。
で、思うんです、映画のパンフに乗せる文章をスクリーンで観てないで書く、それを良しとする監督、依頼する映画関係者。淀川先生はその存在にきっと深く悲しみ、深く傷つき、深くお怒りになると思うのです。
で、やっぱりそちらのほうが正しいと思うんです。
映画館に来ているお客さんに売る映画のパンフレットの解説が「映画ににたちがう何か」をみたものを書いて関係者がよしとするとかやだなと思います。
内田先生は自分はその道のプロではないというのかな?命を映画にささげた淀川先生と同じ線で語られるのは困るのかな?
でも映画について好き嫌いを言うのでなく、良し悪しや「評論」をするのであれば「映画に似たなにか」を観て書くのでなく「映画」を観て書いてほしいなと一映画ファンとしては思ってしまいます。
そしてそれができないなら依頼を受けなきゃいいのにと。
内田先生にとっては沢山あるうちのひとつの仕事なのかもしれないんですが、正直悲しくなってしまいました。
なんかまとまりませんが、映画の評論はせめて映画を観てしてほしいな。
この監督は本当にそれでいいのかな?映画館で観てくれる客に対しては何の違和感もないのかなってもの凄く引っかかってしまいました。
淀川先生がなくなってから色々な映画関係者の方達の文章で「淀川さんが生きていたら。」って文章や発言してる映像をことあるごとに見かけます。
淀川先生が今生きてらっしゃったら日本の映画界に対してなんていうんだろう。
そういうのを沢山の人が聞けたらどうなるんだろうって改めて考えてしまいました。