carmine113さんが好きだ。

 

 

carmine113さんが好きだ。
いきなりの告白大会から始まるがツイッターでcarmine113さん(@studio_carmine)の絵に出会った時あまりに大好きすぎて声が出た。
女性も男性もメカも空気も何もかもが大好き。
キュートでチャーミング。みてるだけでわくわくする。楽しくなる。
ツイートを遡って端から「イイネ」をつけたかったがあまりにストーカーチックで控えた。
というか「うわぁ、大好き!!!」がでかすぎて自分でもこれ怖いだろうって思った。
ツイートを拝見していくうちにピクシブキンドルに漫画をあげてくださってくれている事に気づいた。
気づいたが実は読むまでにしばらく期間が空いた。
絵があまりに大好きすぎて漫画やお話が自分の「好き」と違ったらやだなー。とかなり失礼な事を思ったからだ。
もうでもそれぐらい絵が自分にぴったりすぎるくらい大好きの塊だった。
とはいえずっと読まずに我慢できるほど意思も強くないので程なくキンドルで無料で公開してくださっている「break_through→」を読ませいていただいた。


オレって、大バカ...
マジで思ったね。
「漫画やお話が自分の「好き」と違ったらやだなー。」
杞憂も杞憂。心配ご無用。
お話も漫画も大好きの塊だった。
読んでもう転げ回った。
比喩じゃなくて本当にジタバタ転げ回った。
大好き!!こんなに大好きなものが無料で読めていいんだろうか!!!
もう一度言う「無料」
ただより高いものはない、というが無料でこんな幸せを手にしていいのだろうかという幸せっぷりだ。みんな読むといい。


「ある地方都市に住む、もうそんなに若くはない連中のコミカルな日常群像劇」
キンドルの説明にある。


自分語りになるが、自分は地方都市に勤務する若い時期ももうそんなに若くない時期も経験してる。
もう若くない時期は地方の田舎で勤務するになったんで違うし、田舎から電車通勤で地方都市へ出勤してたので漫画の彼らとは微妙に立ち位置が違うのだがかなり自分の事として感情移入もしまくった。


ある程度大人として積み上げてきたもの、積み上げられなかったものが見えてくる。
自分が何者でもなくて、好きな事ややりたい事はあっても限界も見えてくる。
色恋沙汰も、仕事も、人間関係も、固まりきらないんだけどでも子供のそれでもない頃。
親しい友人(とかいうとちょっと笑っちゃう感じ。三河では「つれ」というやつ)やのみ仲間と毎日のように子犬がじゃれ合うように遊び倒した頃。そういうの「身内」っていうかんじ。
夜中の公園で子供のようにはしゃぎまわった頃。でも酒が入ってる。
勢いで夜通しドライブして横浜にラーメン食べに行ったり、神戸に珈琲のみにいったり(オレは珈琲駄目だけど行って紅茶やホットミルク飲んだ。)
埃っぽい空気と深夜の道路の感じ。夜と深夜と夜明けの空の色や音や空気の変化。
ちょっと狡く異性の友人や好きな人に甘えてた頃。
箸が転がらなくても面白くて面白くて面白いことばっかな瞬間。
大人は大人じゃないなぁって判ってきた頃。

色々決めたくなくて、でもこのままなのもなぁっていう焦燥や焦り。
なんというか個人的にはローティーンの時の方がある意味大人だった気がするという反対側にある一番子供だった期間。
そういうのをぎゅっと懐かしく恥ずかしく、でもまだ自分自身の中に居るなって思い出させてくれる作品。


いや、オレの妄想なんだけどさ。


自分のかなり大事な時の空気や匂い、気持ちがそのままかえってくる感じがする作品って凄いよ。


細かいネタもすごい大好き。
水原勇気とか一番搾りとか!!!
一番搾り、大好き!!(オレは麒麟派)

クラッシックラガーがいいけど野外で飲むのは一番搾りが多いな。
甘党が組むと凄いよねってのも笑った。組むとうるさいか水を打ったように静かになるかなんだよね(奪い合うように食べるから。)
細かいディティールが丁寧でお話に説得力があって書き割りにならない。

息づかいとか体温とか寒さや暑さや風の心地よさ、そういうのが伝わる。
そして絵が素敵!!!
ネットって凄い。こんな出会いがあるなんて(うっとり)
 skebで依頼させていただいた絵もめちゃくちゃ素敵。
アクリルマウントが届いて踊ってる。


carmine113さん改めて本当にありがとうございます。

f:id:HAZIMESANGOU:20211222211952j:plain

「何者かになりたい」熊代亨 読了

 

 熊代亨さんの「何者かになりたい」を読んだよ。

自分は今年は「知命」といわれる年齢になるんだが、「天命を知る」とかならないなぁという感じで未だに「何者かになりたい」という思いがくすぶってるんだと思う。

というか「何者にもなれなかったなぁ」の気持ちかな。

 

自分は「何者かになりたい」って気持ちがからオンラインサロンにはまって大失敗もしたし、SNSにのめり込んだり、ゲームに時間やお金をつぎ込んだりもしたから耳の痛い話も多かった。

中学の頃からの友人から指摘される位に「承認欲求」より「所属欲求」が強い奴でその上、おっちょこちょいで考えなしだから「たったひとつの冴えたやり方」がある気がして甘い言葉にも弱い。承認欲求もあるし。

読んでいて、「承認欲求」や「所属欲求」を求めて陥りがちな罠とか注意点とか気をつけたい点とか凄く勉強になるんだけど反発したくなるって言うか、「そんな優等生なの面白くない。」とか「そつなく賢く自分の利になる生き方って狡猾でやらしいな。」とか思っちゃうのは自分の中2病気質な気がする。純粋な心根信仰っていうか。いやなんか違うかな。

そういう戦略って大事って思う部分もあるけど、そういうの汚いみたいな、あとそんな小さく纏まるのつまんないというか。...子供かよ...

 

「「毒親の子供」という負のアイデンティティにはあまりこだわらない方がいいかもしれません。」という言葉に「一旦はその自覚が必要だと思うな」と思うと同時に必要以上に気持ちがざわついちゃうのは「毒親の子供」というのを自分が自分のアイデンティティにしてるからだと思う。

毒親の子供」をやめたときから自分自身を始められると思っているし、そうしたいと思ってるけど感情レベルでは思い切れてない部分もあるんだろうな。

 

「何者かになる」というのは「他の何者かになれない」ということでもある。

っていう言葉が一番ずしんと来た。

最終版に出てくるんだけど、そこまで読んでて色々と自分が引っかかってしまう所ってこれが納得したくないというか受け入れたくない部分もあるのかなと。

強欲なんだろうな。

 

 

冷静に考えると「何者かになる」っていうのも手に入れてきたんだよな。

それだけに「他の何者かになれない」って言う部分切ない。

自分は日雇い肉体労働の親もとでハーモニカ長屋で育って自分も鳶や土方手伝ったりで、小学校の時に同級生のサラリーマンの父親を初めて見たときに同じ人間とは思えなかったし、生活も異世界のものようだった。

でも、結婚した相手は大卒のサラリーマンで崩れかけた家からは抜け出したしあの世界からは抜けてしまったし、戻りたいとは思わない。

あの猥雑さにも優しいところがあったなとは思うけど、美化してるしやばいこともいっぱいあるの知ってるし。

でもなんか異世界にきちゃったなぁという違和感は時々感じる。所在のなさというか。

でも、ブルーカラーの世界って(なんかブルーカラーっていうとかっこいいな。そんな綺麗な感じじゃないんだけどな。)自分の大元に在るもので消えないんだけど、もう今は自分の世界じゃないんだよな。そういう引き裂かれてるのもやっぱアイディンティのひとつなのかな。

 

それだけに「当たり前過ぎるかけがえのなさ」を手放すな」も耳にいたいな。

「隣の芝生は青い」で色々周りをうらやましがって、自分は何にもない。自分は何者でもないって思っちゃうけど手にしてるものも沢山有るし。それは大事にしなきゃいかんよなって思う。

 

とっちらかっちゃうや。また読もう。フックされるところ、どの本を読んでもそうなんだろうけどやっぱ自分の問題だったり、話なんだよな。

 

 

好きなものを褒める時は何かを下げる事をやめたい。

これは自戒と、忘れられない憤りの書き出しなんで、読んでて楽しい話にはならないです。

 

結論を先に言ってしまうと「好きなものを褒める時に何かを下げる事をやめたい。」

「できれば好きなものを布教する時に何かを下げる事を止めてほしい。」です。

 

漫画、映画、小説、音楽、好きなものはたくさんあります。

自分の中に特別な作家がいて、推している作品があって、大好きが止まらない作品があって、知らない人にとにかく出会ってほしい作品があります。

そして今はネットが充実していてそれを手軽に言ったり、勧めたりできる環境が整っています。

 

つい、ひとつの作品や作家さんがぐぐぐっと自分に迫ってくると「これこそ至高」って盛り上がり、うっかり他の作品を下げてしまう事があります。

ネットは強い言葉の方が拡散力が強いし、ツイッターは字数制限が140文字なのでついつい省略すると自分が思っている以上に文章だけ読むと他の作品を下げている事があります。

あと、もう盛り上がりからか「こんな面白いものは他にはなく他のものはそこまで面白くない。」と言い切ってしまう事もあります。

でも、それ違うから。

「私にとって」が抜けてるから。

 

いや、いいんですよ。ネットだし、面白くなかったものは面白くなかったって言ってもいいし、詰まらんかっていってもいいと思う。それは自身の感想だから。

でも、曖昧に「他のものはそこまで面白くない。」と言われてしまうと、「他のもの全部をちゃんと体験したの?」とか意地悪く思ってしまうのです。

 

あと、布教が目的なら悪手だと思う。

「ファンは自分だけでいい。新規なんかいらない。こっそり自分だけが愛でてれればいいんだ。自分がパトロンになるぜ。まぁ、既存ファンとは仲良くしたいかな。」なら有効な手段にもなると思います。

でも布教目的なら駄目でしょ。

だって、漫画なら漫画ファンに、小説なら、小説読みなれている人に布教する方が成功率高いのに、最初から「他のものはそこまでおもしろくない。」とか雑に言い切るのって、その新規になりえるかもしれない人が大事にしている作品を、もしかしたら体験もしてないのに貶めてるから。

 

自分、例えばどんなに内容が正当であろうと平井和正栗本薫中島梓を下げながら他の作品勧められても絶対読まないし、意固地になって「読むもんか」って決意する気がする。

大島弓子は大好きだが、何故か吉野朔美を下げながら大島弓子を絶賛する人がいるから一時うんざりした時期もあった。

 

あとこれはもう粘着の私怨なんだけど漫画評論・研究家を名乗り、書籍を出したり活動している人がツイッターで、ある漫画雑誌が新規読者を沢山獲得した機会があった時に、一人の看板作家の作品が載っていない事をさして「これとこれが読めるから「不幸中の幸い」(大意)」と作品を名指して発言をしたことがあった。

その号、連載も読み切りも他にもすごい充実していたし、何より自分の大事な作家さんが何人も掲載していた。それを「不幸中」とされた事に憤り、それはないんじゃないんですかと返信したら、その方は「あぁ、その人のファンは読むでしょうけどね。」と返してきたのですよ。

その人の中で「不幸中」というのは間違いない話だったと意地悪な自分は思いました。

雑誌としての評価はないんだなと。

もう、頭の中沸騰するかと思うくらいに怒りでいっぱいになりましたが「そうかそういうスタンスの人で有名作家以外は眼中にないんだな。」と割り切りそれ以降その人の評論とかどうでもよくなったし、しばらくは時々流れてくる褒めてる作品をみると自分の中ではちょっとマイナスがつくほどでした。

 

何かを下げないと褒める事が出来ないってつまらないと思うんですよね。

だって、自分が至高だと思っている作品って別に何かと比べて至高なわけじゃないじゃないですか。その作品が輝いているから、自分にぐいぐい来るから至高であって、他とか関係ないと思うんですよね。

面白くなかった作品を面白くなかったっていうのはありでも。

何かを褒める時に何かを下げるのは下品だなぁって思うのです。

やっちゃいけない事ではないけど、やってる事によって新規読者の獲得を阻害してるし、たくさんの人に喧嘩売ってる事になるというのは自覚が欲しいなと思います。

 

自分、例えば漫画だと、今、連載中の作品でも「これぞ至高」が複数あってどれも一番で優劣がない人間だから特にそう思うのかもしれないです。

好きな作品を大好きな人が他の作品を下げてるのをみるとなんとも言えなく悲しくなります。

だって、自分が大好きな他の作品を雑にけなされてるから。

どっちの作品も大好きなら大好きなほど悲しくなります。つらい。

 

でも、自分も無意識にやりがちかなとも思うんですよ。

長く生きてきて古い作品を褒める時に、例えば「今は・・・」みたいな事を言ってしまう事はあるから。(まさに老害

でもそういうの絶対うんざりしちゃう人っていると思うから、勢いに任せて言いすぎないように気を付けたいです。

 

てか、好きは大好きを叫べばいいと思うの。

比べても別に際立つようで何かが際立つわけじゃないから。

すごい作品があっちにもこっちにも多いから気を付けたいなって思いました。

 

日本に生まれて、日本語が母国語で本当に死ぬほど感謝してる、日々。

なるべく健康に気を付けて長生きしなきゃ!!!

「摩利と新吾」のドジさまのインタビューを読んで。

f:id:HAZIMESANGOU:20190510200150j:plain

もう、入荷案内とか待ってられなくて本屋さんに行ったら今日入ってきたみたいで「摩利と新吾」の完全版1.2を無事入手することができた。

「夢の碑」から入ったファンなので初めて見るカラーとかたくさんあって最高!!

で、インタビューをワクワクして読んでたんだけど、思いがけずドジ様が中島梓さんの事を語ってらっしゃってた。

 

色々な感情が渦巻いて、はらはらと泣いてしまった。

 

自分は長い事、ドジ様こと木原敏江さんと中島梓さんが大好き。

ドジ様の編集で梓さんの執筆もある「シルクロードのシ」やドジ様の画集「虹の森の鬼」での梓さんの木原敏江論、グインサーガでのドジ様のイラスト入りの解説。画集「夢占船」や「小説道場」に収録されている栗本薫さんによるドジ様イラスト付きの「摩利と新吾」の2次作品。栗本薫さんの「魔都」や中島梓さんの「魔都ノート」のドジ様の表紙。

色々なところから見える大好きな二人の作家さんがとても仲がいいというのは、なんだかちょっと変なんだがとてもうれしいエピソードだったし。

それぞれがかかわるように出されてくる作品や文章がまた素晴らしくてワクワクしたものだった。

 

いつの間にかそういうのは途絶えた。

長く生きてくれば付き合いや付き合い方も変わるし。疎遠になることももちろんある。

それは別に仲たがいをしたわけではないというのだってわかる。

それこそドジ様とも梓さんとも個人的な付き合いがあるわけではない1ファンである自分にはお二人の関係がどうなっているかなんて実際のところわからないし。そうそう見えてくるものでもない。

それこそあんな風にその一部がみえていた時期があったというのも一つの奇跡だったとも思う。

いろんな意味で少女漫画だったりジュネだったり、ほかの何かの創世記にある「そういう時期にある奇跡。」

 

でも、そういうのが見えなくなったのがさみしかったのは正直あった。

ネットでいろいろな話やたくさんの人の憶測を見聞きするようになると読んでてつらいなぁって思うものもあったし。

 

そして、中島梓さんが逝ってしまう。

自分にとってとても大切な作家さんなので今でもつらい。

その時に梓さんとお付き合いがあった方々の追悼のコメントをいろいろ読んだ。

ドジ様のそれは自分が拝見した範囲ではなかった。

身近な人、いろいろな形でお付き合いがあった人が逝ってしまったときにコメントを出される人も多いし、ネットが身近になって自分も発言することはある。

でも、発言しなきゃいけないわけじゃないし、発言できないこともある。

身近だったらなおさらできないことだって多いと思う。

 

ドジ様と梓さんが交流があった事は自分が知ってるくらいだから、もちろんたくさんの人が知っていた。

梓さんが亡くなった時にそれを思い出して、ドジ様がそれに触れないことを訝しんだり、嫌なことをいう言葉をいろいろと見かけた。

外に向かって発言することだけが追悼じゃないし、発言してないからってなにも思ってないわけじゃないし、大体、発言しなきゃいけないわけじゃないし、それで嫌な感じな言葉を見かけるとつらかった。

例えばもう縁が薄くなっていてそこまで気持ちが動かないにしてもそれは悪い事じゃないし、それが他者から責められる事でもないのにとも思った。

好き勝手いうなぁって憤りがあったけど、その時、ドジ様がどう思われているかもちろん自分にもわからないし、なんだかどういってもうまく言葉にならないからそういうのは読んでそっと通り過ぎるようにした。

でも、ずっと自分の中で何かがくすぶっていた気がする。

 

今回のドジ様のインタビューでは梓さんのエピソードが優しく柔らかく、懐かしく語られていた。

ドジ様はずっと大切にその思い出を持ってらっしゃったんだなぁって思ったら涙が止まらなかった。

あとこの辺りは妄想なんだけど、ドジ様は外に向けて追悼の文を発表するのではなくやっぱり梓さんが逝ってしまったときにドジ様自身の中で悼んでいたんだろうなぁって。

そして、こんな形でお話しされるのにも10年かかったんだろうなぁって。

梓さんが逝ってしまったのは2009年の5月でもう10年たってしまうんだって思った。

でも、自分も相変わらず梓さんや栗本さんの作品を読み続けてるんだよなって。

相変わらず助けてもらってばっかりだよなぁって。

 

そして大好きな作家さんが同じ時代に生きていてくれるのは奇跡なんだなって思う。

ドジ様が生きていてくれて、先日「白妖の娘」の最終巻を届けてくださったのもすごい事なんだよなって思う。 

 

そしてインタビュー記事では、改めてドジ様のとても芯の通ったやさしさに触れさせてもらってすごく救われたし、なんだかうまく言えないけど「それでよかったんだな。」って思わせてもらえた。

 

いつももらってばっかで返しきれないものばっかりだけど、せめてファンレター書こうかなって思う。

いつも大好きだから。

 

まめぞう はだのお手入れ(2009年10月26日)

 

2009/10/16の日記が古いHPから出てきたんで保守 自分用ね。

 

まめぞう お肌のお手入れ大好き。(っていうか身に着けたり塗ったりが大好き。)
自分が乳液や化粧水や日焼け止めを塗ってると自分にも塗れって漆。気づかずにスルーしたときは泣き出しやんの。
 自分‥化粧は基礎化粧以外ほとんどしないんだけど口紅とか塗ってたらまめぞうも塗りたがるのかなぁ‥塗りだがるだろうなぁ。
 始終、着替えはしたがるし。かわいい自分が大好きなまめぞうなのでした。

おむつを替えるたびに乳液をおしりに塗れっても主張するんだよな。

 

子供の昔のエピって忘れてるから楽しい。

うちの息子、今でも「かわいい自分が大好き」

どこから来るんだ、その自信。

ボヘミアンラプソディ 応援上映楽しかった。

f:id:HAZIMESANGOU:20000202205858j:plain

ボヘミアンラプソディ 一昨日と昨日、二日続けてみてきた。 
昨日は応援上映。 
映画館、満員でみんなわくわくしてて、高揚感があって最高だった。 
騒がなきゃ!!!って感じじゃなくて、 
映画見て、あの映画だから体動かしたいとことか一緒に歌いたいところとかみんな歌う感じで楽しかった。 
静かな所はわりに静か。 
ちょっと心配だったんだけど楽しかった。 
みてると、切なくて、かわいそうで、かわいくて、キュートで、でもつらくてってぐるぐるするけど最高だった。 
映画見た後、ガスト入って、2時間以上大いに語った。 
興奮が冷めやらないんだもん。 

・・・でもさ、丁寧に作ってある映画だよね。 
そりゃ、びっくり要素とかはないかもしれないけど、すごい誠実な映画だったと思う。 
最後のライブはやっぱりぐーってくるよね。 
重低音、震撼て歌った音質良好の上映は楽しかったな。 
腹に来るし。 

ねこ、かわいかった。 
もう1回くらいは映画館で観ときたいなぁ。 

子供の読書

f:id:HAZIMESANGOU:20080211073623j:plain

小5の息子が学校からこんな冊子をもらってきた。

 

そこからの我が家の会話。

自分「別に読みたくなかったら本なんか読まなくてもいいけどねー。いいことな訳でもないし―。(活字中毒のけがある人)」

息子「おすすめ本に夏目先生の「坊ちゃん」があるよ。」

  息子の文豪ストレイドッグスの押しキャラは夏目漱石先生である。

  渋いな!!!

自分「あー、漱石は「坊ちゃん」より「吾輩は猫である」か「自転車日記」のが面白いよ。」

姉「文ストからは谷崎読んだよ。」

自分「谷崎は変態だからな・・・。」

姉「でも、綺麗だから。」

父親「文ストも谷崎でなおみちゃんだし。」

自分「文ストよんで久々に独歩よみかえしたよ。」

息子「それ、だれ?」

姉「国木田さん。」

息子「読んでみたいなー。」

自分「漢字にかなふってあるのあったかなぁ。またみるよ。」

父親「でもそろそろ少年探偵団あたりは押さえた方がいいよな、もう小5だし。」

 (ほとんどうわごと。だって自分が好きなんだよ。判るよおいらも好きさ。)

息子「推理物より冒険ものの方がドキドキするからルパンの方がいい。」

父親「奇岩城はよまないとね。」

自分「ルパンが出てたらルパンが主役だよねー。クリスティも冒険もの書いてるよ。ポアロとかヘイスティングが出てくるやつで。」

息子「ポアロさんって探偵じゃないの?」

自分「ポアロは何でもやるんだって。(暴言)」

息子「また、読みたい。」

父親「でも、推理物がスリルがないとかまだまだ甘いな!!」

息子「えー。でも探偵は失敗しても探偵のマイナスにならないじゃん。」

・・・甘いな・・・

自分「クイーンってそんなんだった?」(息子さんはエラリー・クイーンを読んでいる)

父親「まぁ、推理物は最終的にはハードボイルドまでいかないとな。」

自分「チャンドラーは読まないと。「長いお別れ」とか。もう、推理とかどうでもいいから。(暴言)」

息子「でもさぁ、音読してもらうと本を読むっていうのは本当だよね。ぼくやってもらったし。」

(唐突にもらってきたムックの話に戻る。)

自分「あー、「モモ」とか途中だからまたやらないとね。そろそろやろうか。」

息子「僕、ガンバがいいなー、ガンバ。」

 

あと、色々、具体的なそれぞれの押しの本の話になだれ込む。

お前ら、朝忙しいんだから支度しろ!!

 

ま、別に子供に無理に本を読ませなきゃって全然思わないし、他に楽しい事があったらそれがその子にとって本以上の意味があるしそれでいいと思う。

ただ、「読書好きな子供になってほしい。」とか「本を読んでほしい。」とか漠然と思ってても子供は本を読まないんじゃないかな。

あと、やっぱり子供に読ませたいなら自分が読まないとね。

おいらは子どもが読まなくても別に全然かまわないから自分の読みたい本をガンガン読むけどね。

うちみたいに本が散乱してる上にがつがつ本の具体的な話が展開されてると子供はほっといても読みたい本を読むよ。

 

しかし、うちの環境は本が嫌いだったらかなりつらいと思うのでみんなそれぞれに本を読む人で良かったです。