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中途半端は色々と嫌われたなぁ。~コンテンツを手段とするとずるいって言われたよね~

 ここん所、オタクとサブカルの話が色々な所で繰り広げられていて、大体がオタクとサブカルの区別が自分、ついてないじゃね?って感じだったんでとっかかりとして次の2冊を読んでみた。

融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論

 

 

 

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

 

 ちなみに自分は1970年代前半生まれ、地方都市在住で相変わらず地元を離れず暮らしている。高卒でそのまま地元で働いて結婚って流れ。

やっぱり自分と自分のまわりに一番興味があるんで読んでてもそこを一番考えてしまった。だから以下は感想っていうより自分語りになる。

読んで思ったのがこの本もそうだし、オタクとかサブカル、あとネットやメディアで見聞きする新人類や就職難世代とかって大卒基準なんだよね。高卒の自分はちょっと違和感を感じる話が時々出るかな。

自分は世代的には就職氷河期の最初なんだけどそれはあくまで大卒の子達の話であって高卒でそのまま就職した自分はバブルの最後の瞬間を体験した。

良くも悪くもあの体験は「裏打ちのない能天気感」というか「ま、何とかなるだろう。」というお気楽な基盤を自分の中に作っている。

そういう意味ではちょっと上の世代に近い所もあるのかもしれない。

読んでみて気になったのが自分が「オタク」なのか「サブカル」なのか「ヤンキー」なのか「リア充」なのかっていう所なんだけどなんか全部そうだし、全部違う感じもした。

 

いや、正直に言うと、ここの所あまり話題にならないんだけど、「オタク」でなく「おたく」って言ってた頃、自分が高校生の頃(コミケではキャプ翼の同人がさかりの頃)女性はどんなに趣味嗜好がおたく的であっても「おたく」とは呼ばれなかったと思う。「おたく」っていうのはかなり限定された言葉であってそこには「男性である。」って記号も入っていた。

大体、女の子同士がやってる同人誌活動ってかなりコミュニケーション能力が求められたと思う。ゲストを呼ぶとき、ゲストに出る時、サークルを作って本を作る時、とても人とその作品を大切にすることを求められたしそこを外れる訳にはいかない空気があった。

だからおたく的な女性ってコミュニケーション能力は普通より高い人が多かったように思う。

 

「おたく」と「サブカル」の違いはなんかこう自分、かなり間違ってるのかなぁと思わされた。

自分はDCブランドとか渋谷系の音楽とかあの頃いっぱいあった自主販売のCDなんかかっこいい系がサブカルと思ってて、SFとか漫画とかアニメとかオタク的趣味だとつい最近まで思てたんだがこの本を読むとオーケンはサブカル者らしい・・・

著書を全部読んでないからそういう事がおこるんだろうけど大槻ケンヂって「UFOオタク」で読書傾向もおたくだなぁと勝手に思ってた。書く小説もそんな感じに思えるし。

この本ではないけど「エルリック」がサブカルで「スレイヤーズ」がおたくだって区別もびっくりした。

・・・だって、両方ともおたくだろうにって。(両方とも大好きだが。)

なんかなぁ、こういう認識のいい加減さが自分がいろんな場面で趣味を突き詰めている人、いわゆる「尖った人。」に嫌われたり煙たがられたりきょとんとされる理由なのかなと改めて思い至った。

多分、そこに意味を持ってる人に「エルリック」と「スレイヤーズ」を同じに語ったらイライラさせるだろうし、どんなにオーケンが好きだと思っててもオーケンをサブカル者だと思ってる人に自分の「おたく的オーケン」の話をしたら逆鱗に触れる事もあるだろう。

そしてその差異ってものすごく重要なのね、多分。アイデンティティ的にも。

ま、それは「おたく」や「サブカル」だけでなくシャンソンが大好きな人たちの中で越路吹雪の話をしてる時に「次郎長三国志の越路吹雪の話をするとなかったかのようにスルーされる。」とかジャズファンと話しててあれもこれもそれも好きって話をすると「あれとこれとそれを同列に語るな。」って説教されるのと同じ事かもしれない。

高校の時に同じようにオタク的なものを好きな友人にポツンと「でもあなたはちょっと違うからな。」って言われた部分かもしれない。

その違う部分というのは「コンテンツを手段にしてる」って部分かもしれない。

熊代さんの著書にある「マイルドヤンキー的な部分」となるかも。

自分は皆に「居場所を探してるように思える。」ってずばり言われるぐらい「承認欲求」より「所属欲求」が高かった。

勿論、嫌いなものは読んだり聴いたりやったりしないけど、人と仲良くしたいがために本を読んでみたり、アニメを観てみたり、音楽を聴いてみたり、競馬をみてみたりした。つまんないと思えばやめるけどたいてい面白いんだよな。あと仲良くなりたい人の愛好してるものだから「その人への興味」が面白くてそのコンテンツを消費し続けるって部分もでてくるし。

端的に言って貧乏だったので子供部屋もなかったし、子供時代に溢れるほど物を買ってもらえるという訳ではなかった。

じゃぁ、どうするかというと、図書館とか視聴覚センターとかテレビとかラジオとかあまりか全くお金のかからない手段でコンテンツを探していた。

だからテレビでいっぱい映画を観たし、本を読んだし、視聴覚センターでレコードをたくさん聴いた。(地域的な事情でジャズのレコードが多かった。)ラジオで音楽と落語と小沢昭一やオールナイトニッポンにまみれた。

 

どうもコンテンツを手段にするのはずるい事だと認識されがちだし、そういう部分も勿論あるんだろうけど、コミュニケーション能力がそう高くない自分は「コンテンツの力」にかなり助けられてきたし、今現在も助けられて楽しく生活を回している。

結婚の前は蛇蝎のように嫌われてた義母とは美空ひばりや三橋美智也に助けられてるし、血のつながらない難しい年ごろだった娘たちとはボカロや漫画やゲームがパイプになってくれる時も多い。

小学生の息子とは児童文学やアニメ、ゲームを一緒に楽しむことで色々楽をさせてもらっている。

空手でコミュニケーションをしようとかかなり難易度が高い。コンテンツの力は偉大だ。

あとあれだな、思春期の頃も、20代の頃も自分、最先端だった事ないんだよな。(働くようになったら東京にコンテンツ消費の為に月2で上京してても。)

一番好きなものは 小学校から「山之口獏」で「3代目江戸家猫八」小沢昭一になじんで、中学の頃は「ユル・ブリンナー」「ポール・ニューマン」が大好きで、マキノ雅弘が大好き。平井和正信者だった。働くようになったらうっかり体験した「高野圭吾」のシャンソンに心を奪われた。

・・・・とにかく古いんだよな。そして俗。そしてミーハーの節操なし。

そして周りに判ってくれる人は少ない。「私だけが理解者」みたいな結構勘違いな充足はあるけど。

まぁ、旦那とかなり趣味嗜好がかぶってて一緒に話したりするのが楽しいだが、彼と最初に盛り上がった話題はウルフガイの郷子さん押な話。

あの夜は一つの奇跡だった。

リアルにふいに話した趣味話がばっちり嗜好が一緒で大盛り上がり。行きつけのバーのマスターがそっと奥に引っ込んだんだよな。後々ネタにされた。(他に客がいなかったって言うのも中々出来過ぎだし。)

旦那の事は大好きだし、尊敬もしてるけどあの夜の話がなかったら結婚はできてなかったと思う。どういう流れでそうなったか判らない。

でも人生にそういう事って起こるんだよね。

人はやっぱり多少の差はあれ人と付き合っていかないと生きていけないからコミュニケーションはできた方がいい。

出来なくてもこの人となら出来るっていうのもあるからそういう人を探すってのも大切かもしれない。

バーべーキューも海水浴も勿論楽しい。

 

地元にいて子供がいて友達がいてってやっぱりカテゴリ的には「マイルドヤンキー」なのかな。それが自分だって思ったことなかったけど、この本を読んだらそこに落ち着くのかなって見えたのが読んでて面白かった。

でもな、自分、正直コミュニケーション能力は高くないし、低いと思う。だからこの本読むとコミュニケーション能力がめっちゃ必要に思えるけどわりとそれが低くても友達や仲間の中では「低くても大丈夫」な場合もあると思うとちょっと伝えたいかな。